あなたは自分の健康診断の結果を、他の人と楽しく語り合うことができますか。手書き顔グラフは 健康診断の結果を、顔の絵に表す方法です。健康の現状を楽しく話題にすることは、健康をより深く理解することにつながります。あなたも自分の健診結果を手書き顔グラフに描いて、他の人と対話してみませんか。手書き顔グラフ用紙例1
手書き顔グラフ用紙例2
対話からの地域保健活動(顔グラフの可能性を論じています)守山正樹.地域保健活動における顔グラフの現状と課題.地域保健、22(4):43-51、1991
地域保健活動における顔グラフの現状と課題.
◆なぜ顔グラフか?
健診の非受診から顔グラフに至った問題提起 現在の集団健診にはいくつかの原則があります。例えば、①健診全体の流れが一つのシステムとして制御され、短時間に安い費用で効率良く疾病(または疾病への準備状態)を発見することに努める、 ②最初に比較的単純な検査を行って何等かの問題がありそうな人に当りをつけ、その後さらに精密な検査を行って、最終的に問題の有無を判断する、などです。 受診者が、気軽に健診会場に足を運び、健診の流れを快適に通過してゆくことを目指して、これまでさまざまな努力がなされてきました。 しかしこうした努力に見合った形で地域の人々が健診を受診する率が上昇したとは言い難いように思います。 一体なぜ健診を受診しない人々がいるのでしょうか? 健診非受診の原因を求めて、長崎県下のA町で聞き取り調査を始めた私達は、思いがけない事実にぶつかりました。それは、「集団健診をする側が、十分な人手と設備を用いてする健診であっても、その集団健診自体が非受診の理由を生み出す場合がある」、という事実です。 すなわち、前述した二つの集団健診の原則そのものが、健診非受診の理由になり得ることになります。 そうであるなら、健診への勧誘や、待ち時間の短縮などをいくら進めてみても、問題の根本的な解決にはなりません。では一体、どうしたらいいのでしょうか。 当時私達は、この大きな問題に対して、何が解決になるのか見当もつきませんでしたが、さりとて、問題を放っておくこともできませんでした。ささやかなことでもいいから、事態を改善の方向に向けるために、何か具体的なことができないものか? せめて、もう少し健診を楽しく人間臭いものにするには、どうしたらいいか? そこで私達が試みはじめたのが健診結果の戻しへの顔グラフの導入でした。 ◆チャーノフの顔グラフとは
顔グラフとは、アメリカのチャーノフが一九七三年に発表した、グラフ表示法の一つです。 われわれが何かの情報の量的(大小、高低、多寡)、あるいは質的な特徴を他者に伝えたいとき、数値を並べてもわかりにくい場合に、グラフを用いることがあります。例えば、収縮期血圧値が一三八から一五二になったと、数値を見せられて印象が薄い場合でも、数値をグラフにすることで、違いがはっきりすることがあります。 グラフとして、棒グラフ、円グラフ、レーダーチャートなど、幾何学図形を用いたものが知られています。 しかしチャーノフは、幾何学図形の代わりに人間の顔の図を用い、多変量の数値データを顔の各造作(例えば唇の湾曲度、眉毛の傾き、鼻の長さ、等)に割り付けて表示することを試みました。 人と人とのコミュニケーションにおいて、顔の表情は大きな意味を持ち、人は相手の顔の表情のわずかな変化を読み取ることができると言われます。チャーノフ自身は、化石や地質に関連した情報の分類に、顔グラフを応用し、数値で表わされた情報の特徴が、専門家にしか理解できないような複雑なものであっても、その特徴を顔の図にすることで、素人でも特徴を見分けられることを示しました。 チャーノフの顔グラフは、その後わが国でも、工学から経営学に至るまで多くの分野で利用されてきました。保健・医療の分野では、原爆被爆者の健康管理の支援を目的とした検査値表システムが、近藤氏らによって提案されています。 ◆手書き顔グラフへのあゆみ
パソコンによる 顔グラフの試作 健診で簡単に得られる検査数値(血圧、肥満度、血色素など)を顔グラフに示すことで、健診結果の返却を楽しくしようと考えた私達は、まず近藤氏らのシステムの採用を考えました。しかし、大型計算機上で動くシステムを、地域保健の現場にそのまま持ち込むわけにはいきません。またチャーノフの顔グラフでは、最大限一八次元の数値を表示できますが、一般の健診結果を表示するためなら、もっと単純な図で間に合います。そこで、出来るだけ顔グラフの造作を単純にした上でパーソナルコンピュータに顔を描かせることにしました(図1)。 パソコンから 手書きへの歩み
ここに至るまで、私達は健診のデータさえ用意すれば、そこから自動的に顔グラフを描いてくれるような、パソコン用プログラムの完成を目指していました。しかし、一応パソコンで顔を描くための原型プログラムを作成し、さらに顔に体の図も加えた、より総合的な顔グラフの開発へと進みつつあった私達は、途中からこの方針に疑問を持ちだしました。理由はいくつかあります。例えば、①顔を描く作業をコンピュータにまかせた場合、短時間に整った図を得ることはできるが、機械的で押しつけがましい印象が残る、②保健婦も住民も、ただ受身でパソコンの画面を眺めていた場合、最初の物珍しさがなくなると、印象自体が薄れてしまう、等です。そのため、パソコンの画面に描いた顔をいったん紙に出力し、それを眺めながら、指導者と住民とが意見を交換する方法に切り替えました。 この方法は手間はかかりますが、指導者と住民の双方が、健診結果をより身近かに感じられる点で、パソコンの画面を見る方法よりもはるかに優れていると思われました。すなわち、顔が紙に描かれている場合には、指導者は必要に応じてその図に、さらに色鉛筆で線を書き込むなどの加工を行うことができ、そうした加工作業を通して、情報がより身近になることが観察されました。 しかし、コンピュータの画面を眺めるよりも、顔の図にいろいろと書き込むことの方が意味を持つのならば、わざわざコンピュータを使う必要はありません。最初から顔を手で描けばいいわけです。幸いなことに、すでに教育工学の分野においては、神戸大学の永岡氏が、学童の成績から「手書きの顔グラフ」を作成することを提案しておられました。これにヒントを得て、われわれは健康状態に関する手書き顔グラフを試作しました(図2)。 手書き顔グラフの成功と失敗
この顔グラフをT町の健診で初めて試行し、(従来通りの)数値による結果の説明と、顔グラフによる説明と、どちらがわかりやすかったかを受診者に質問したところ、より多くの人々が「顔グラフ」を挙げました。また、顔に体も付け加えた手書き「顔体グラフ」を試作し(図3)、これをI町の健診結果説明会で用いたところ、対象者の九五%が、数値よりも「顔体グラフ」の方を好むという結果が出ました。 これらの経験から、私達は、手書き顔グラフが、「健診を楽しくずる」という当初の目的にかなったものであると判断しました。しかしこの話には、後日談があります。I町での翌年の健診時に、住民を対象として、昨年の健診結果をどう覚えているかを調べたところ、顔グラフを試行した群は、通常の方法で結果を返却した群に比較して、健診に対してよりよいイメージを持つていることがうかがえました。しかし、健診結果の理解と記憶に関していえば、顔グラフを試行した群は通常群に比較して、差がないか、むしろ劣っていました。 いくら健診の印象が楽しくなってもそのことが受診者の行動や知識の面に影響を与えないのなら、顔グラフの実用性はなくなります。この点をどう解決すべきか、私達は一時、答を見いだしかねていました。 ◆地域保健の現場で一人立ちし始めた手書き顔グラフ
アイデア倒れに終わるかにみえた手書き顔グラフに、転機が訪れたのは、それが一度完全に私達の手から離れ、一人立ちしてからです。 私達は、地域保健活動に関連した学会や研修会などの折に、手書き顔グラフの状況を紹介してきましたが、しばらくしてから、手書き顔グラフに興味を持たれた何人かの方々が、実際の地域保健活動に顔グラフを取り入れてくださっていることを知りました。中でも、福岡市南保健所と、長崎県北松浦郡福島町の試みは、顔グラフが健康教育の方法として有効であることを示していました。 南保健所では、まず八九年度に、私遠の原型に比較的近い形の顔グラフを採用しましたが、九〇年度には目と鼻も可動部分に含め、ハ変数まで表示できるように改良を加えました。 一方、福島町の八九年度における顔グラフは、額の皺、鼻、涙などを表示部分に含めた、手の込んだものであり、九〇年にはさらに、よだれが付け加わわりました。 これらのユニークな顔の図柄もさることながら、健康教育の場面における顔グラフの使用方法についても、会場の設営から教材の提示順序に至るまで多くの重要な知見が得られています。 ◆手書き顔グラフから学んだもの
結局、手書き顔グラフの意義はどこにあると言えるのでしょうか? 南保健所と福島町における、生き生きとした手書き顔グラフの実践を知った私達は、改めてその意義を考え始めました。手書き顔グラフの開発段階では私達が経験したことのない新たな事態が、二つの実践から生じ始めていたからです。 すでに述べたように、私達は集団健診の非受診という問題から仕事を始めました。「組織的な集団健診の原則そのものの中に、非受診の理由があり得る」という問題提起に対し、私達はとりあえず、目前の健診を少しでも楽しくすることに努めました。 深刻な問題提起に対して、私達が選んだ手書き顔グラフという解答は、問題に真正面から立ち向かうことを避けた、姑息的な解決法に見えるかもしれません。しかし、その後の展開の中で、この一見たよりない、しかしユーモラスな方法をきっかけとして、南保健所と福島町では、健康教育に問する具体的な対話/議論が始まり、工夫が積み重ねられていきました。 今になって振り返ってみれば、結局の所、手書き顔グラフという方法そのものよりも、それをきっかけに生じた対話と、その対話を支えた問題意識とが、健診非受診という問題への、最も重要な解決方法になると言えるように思います。 では、必ずしも顔グラフでなくてもよかったのでしょうか?顔グラフなどというものが介在しなくとも、保健婦同士、保健婦と住民、あるいは住民同士が、健診の場面で十分に意見の交換ができるなら、それでいいのではないでしょうか? 確かにそのとおりだと思います。しかし、何もないところから対話を積み上げ始めるのは容易なことではありません。 「医療従事者が一方的に自分の考えを健診受診者や住民に押し付けるのではなく、患者あるいは住民から学ばなければならない」とは、よく言われることです。しかし、地域保健の現場で、他者から学ぶためには、具体的にどうすればいいのでしょうか。誰でもがすぐに名医やベテランの保健婦になれるわけではありません。健診を消化することに追われ、落ち着いて受診者や住民の声を聞くゆとりが持てないでいる場合に、精神論だけでなく、具体的に対話を活性化できる簡単な楽しい方法があった方がいいのではないでしょうか。 そう考えていった私達は、健康教育に関連して「楽しく対話しコミュニケーションを活性化できる」という、手書き顔グラフの本質を、やっと理解することができました(図4)。 ◆顔グラフから健康教育情報学への発展
手書き顔グラフは、健康に関して数値で表された抽象的な情報を、まとまりをもった具体的なイメージに変える一つの方法です。健康について対話を深めようと思っても、健康に関する情報を、各人が頭の中だけで考えている限りでは、健康の意味するところ、健康の認識の仕方、感じ方などを知ることができません。 しかし、どんな不十分な形であっても、健康に関連した数値、思考や行動、感情を、目で見える形に表現できるなら、そこに対話の素地が形成されます。 よって、方法を手書き顔グラフのみに限定する必要はありません。思考や行動、感情などを可視化し、認識を支援できる方法であれば、対話を活性化できる可能性を持っていることになります。 こうした方法は、まだ医学・保健学の分野ではそれほど知られていませんが、教育情報工学の分野ではこうした方法が開発されて来ています。 顔グラフでの経験から、「地域保健の現場で楽しく対話を積み重ねてゆくことの重要性」を認識することのできた私達は、顔グラフの他に、ISM構造化法、認知図法、データペース法などの方法の応用を考え始めました。ISM構造化法で我々が目指したのは、健康に関する思考や行動の流れを、目に見える形として取り出すことです。認知図法では、健康に関連した個人の判断基準を可視化することを試みました。またデータベース法では、地域住民の間に散在する(健康に関連した)重要な情報を掘り起こし、それを地域保健活動従事者の共通の財産として活用することを目指しました。 これらの方法の詳細や、その方法に至る過程での我々の試行錯誤について関心のある方は、篠原出版から発刊された「対話からの地域保健活動」を参照頂きたいと思います。 ◆これから手書き顔グラフを使用してくださる方々へ
本誌一月号の「月間レーダー」の欄で、手書き顔グラフが紹介された後、何人かの方が直接編集部に問い合わせてくださったことを知りました。幸い編集部のご好意で紙面をいただくことができましたので、手書き顔グラフの紹介を書かせていただきました。 本来、何かの方法について解説する場合には、手順を追った系統的な解説が適当だと思います。しかし我々はそうしませんでした。その理由は次のように二つあります。 ①手書き顔グラフは、方法自体がまだ未完成であり、地域保健の現場での実践によって、さらに有効性が確認されるべきである、②極めて単純な方法であるが、多様性が大きい。 そこで、我々の限られた経験から特定の手順を述べるのではなく、そこに至る問題意識を書きました。 手書き顔グラフでは、健康情報を擬人化して示します。人間の顔を表示手段として使うために、人目を引く方法ですが、欠陥もあります。例えば、血圧を唇の角度に割り付けて表示するとします。血圧が正常なら笑顔が、また高血圧になれば、口がゆがんで表示されます。これはあくまでグラフ表現であり、血圧が上がった場合に、実際にその人の口がゆがんでくるわけではありません。 もし、顔グラフを使用した結果、「血圧が高くなると、(本当に)口がゆがむ」といった誤解が生じるなら、場合によっては取り返しのつかないことになります。このこと一つをとっても、健康情報を顔グラフで表示するという試みは、それ自体では、極めて不完全なものです。 しかし、手書き顔グラフの前提となっている発想、「地域保健の場で楽しくコミュニケーションを進める」、を十分にご理解いただいた上で使っていただけるなら、健康教育の新たな可能性が広がってくることを確信しています。使用に際しての原則を以下の五点にまとめてみました。
①楽しく絵を描き、それを通して自分の健康状態を認識する。 ②コンピュータによる作画よりも、手書きの方が対話を深める上ではるかに有効である。 ③保健婦が全部描いてあげるのではなく住民自身が描くことが望ましい。 ④描いた結果を自分一人でみるのではなく、集団討議の場面で互いに確認しあうことで、より関心が高まる。 ⑤他の健康教育の方法と段階的に組み合せることで、顔グラフによって出てきた興味を、行動変容に結び付けることも可能になる。 今後、我々と問題意識を共にする読者の方々が、この方法をさらに発展させてくださることを心から願っています。手書き顔グラフの新しい使い方について、また手書き顔グラフと類似の発想に立つ他の方法(ISM構造化法、認知図法、データベース法など)についても、読者の方々のご意見を頂ければ幸いです。 注1 守山正樹、松原伸一著:「対話からの地域保健活動(健康教育情報学の試み)」、A5版21 8頁、定価(本体2800円十消費税84円)、篠原出版、1991年3月中旬に刊行の予定です。 注2 本研究は、長崎大学教育学部の松原伸一氏との共同研究として行なわれました。また研究を進める過程で長崎大学医学部衛生学教室(主任:齋藤寛教授)の方々を初めとして、多くの方々のお世話になりました。本文中では、それぞれの場面で共同研究者の個人名を示すことはせず、「私達」という言葉で代表させました。1 |