c 演習(学生) 知の発見と視覚障害体験

東京大学教育学部冬季集中授業、

対話からの健康認識学、レポート集要約


2007年12月18~21日

授業者;守山正樹、助言者;吉住寛之


はじめに


本稿に収録されたレポートは、2007年12月に東京大学教育学部での冬学期集中授業のまとめとして提出されたものである。本授業に至るきっかけは、故・東郷正美先生からいただいた。1993年当時、東郷先生は、30年間に渡る身体発育の一か月間隔測定研究から得た定説「発育が波動しながら進行する」の集大成を終えつつあった。その様な折、「発育や健康を丁寧に観察し、現象をありのままに記録し、理論化への道筋までが視野に入るような問題提起を、集中授業として、一度行ってみないか」という先生からのお誘いを契機に、1993年夏、本授業の前身である「教育と健康」が行われた。1995年には、衞藤 隆先生が東郷先生の後任として東京大学に着任された。衞藤先生から様々なご助言をいただく中で、「観察・記録・理論化」を大切にする授業の枠組みが維持される一方、授業の主題は「発育」から「日常生活と健康」へと推移していった。結局、授業題目は「対話からの健康認識学」に、授業時期は「隔年の冬学期」になり、現在に至っている。今日まで授業を続けられたのは衞藤先生のおかげであり、先生からはこの授業に対し、常に変わらないご理解とご支援をいただいている。

本授業では10年以上前から自己開発のワークシートを用い、対話を通して「『日常生活と健康の意味』を捉えなおす試み」を行っている。授業の一部に「五感を用いて周囲の環境と生活を感じる試み」や感覚障がいの体験を取り入れ、「障がい者が置かれているパワーレスな状況を追体験する試み」も8年前ほどから開始している。日常生活の一側面について、「それを幾つかの要素に分解し、再統合する試み」、「生活に用いる感覚を制限し、また制限を解除する試み」を繰り返していると、学習者の健康に対する認識が、深く、能動的なものになってくる。このような現象に繰り返して出会うことから、「健康の認識が生まれ、育つ過程」に踏み込み、それに働きかけることが、授業の主題として大きな位置を占めるに至った。

今年の授業は、過去最高の受講者数が予想されたため、受講者と共に、上記の主題に対し、実践的にも、理論的にも、一歩進んだチャレンジを最良の機会だ、と考えられた。授業の始めに特に強調したのは、エンパワーメント、および健康生成論(アントノフスキーによる)の考え方である。健康生成論に関連しては、山崎喜比古先生の実践や考察を参考にしながら、授業の冒頭部分の説明を行った。実際の授業において、今年の最大の特徴は、吉住寛之氏に助言者として授業に関わっていただき、視覚障がい者の立場から、貴重な問題提起をしていただけたことである。
結果として、個々の受講者が受講前に持っていた健康と生活に関連する個性的な視点が、講義中の対話と演習を通して発展し、新たな段階に入ったことを示唆する状況が生まれた。詳しくは、個々のレポートを読んでいただくとして、多様な学習体験の一部を、レポートから抜粋して以下に示す。


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「日々の生活から健康は育まれていく。・・・生活という営みのなかで、視覚という機能は空間的な定位、移動や、社会的な仕組み・・・に、聴覚機能はコミュニケーション、他者との自発的な関わり、および自己の社会的な定位・・・に深く入り込んでいた。触知体験から示唆されるように、イメージは過去の体験の集積の上に形成されてもいる。・・・日々の生活という系全体は、それを構成する要素がそれぞれ固有に相互作用しており、そのことでさらに要素が変化していくことで、可塑性をもって刻々と形成されていくものだと考えられる。YM」

「4日間の授業、様々な体験を通じて、自分のこれまでの健康観が変わったのを感じた。感覚を遮断すると『世界が狭まる』というイメージを持っていたが、そうではなく、イメージの世界が充実したり、ほかの感覚器官が研ぎ澄まされるなど、『世界が広まる』こともあると感じるにいたった。・・・『見えない、聞こえない』ということが不健康というわけではなく、『見えること・聞こえること』が健康というわけでもないことなど、共通の認識に触れることができた。YN」

 「私が当然視してきた視覚中心、自分中心の『世界』のすぐ隣に、視覚以外の感覚情報、より意識的な他者とのやりとり、他者からの援助によって完成される『世界』が存在することを実感し、ありとあらゆる情報の可能性がある中で、自分が選択し切り取っている世界が非常に狭いという事実を自らの感覚を用いて知ることは非常に衝撃的だった。TJ」

 「今までの素朴な考えでは、健康の反対は病気、つまり病気でない状態は健康ではないかと思ったが、授業を通して、今までとは違う定義を思い浮かべるようになった。・・・授業にいらっしゃった吉住さん、そして普段の生活の中で見たほかの障害者の方々の様子や言葉からは、少しも『不健康』を感じなかった。多くの五感健全な人よりずいぶん健康的な生活を暮らしているようにお見受けした。それはなぜなのか、私は一生懸命考えた。そして注目したのは、認知スタイルであった。SI」

 「視覚から得られる情報は、他の器官からよりも多い。そのため視覚を遮断してしまうことで感じるのは、情報を上手く得ることができないという恐怖感である。今回の実習を通して初めに感じたのは、この恐怖感である。『歩幅が小さくなる』、『他者とのコミュニケーションを積極的にとろうとする』」といったことは、恐怖感のために慎重になっているということと、それを克服しようとしたことの現われだと考えられる。・・・SN」

 「こうした感覚を操作することで、感覚が普段の生活の中でどのような役割を果たしているのかという考えが変わる。また、認識という情報入手に対する考えも変わる。視覚によるイメージの形成が共有されているときには互いにその事実を疑いようがない。しかし、本来見えていれば客観的に測ることができるはずのものに、感覚が異なって働くために、現実がずっと異なって見えてくる。視覚情報を支援していくありかたにしても、人それぞれの介助があるのはこのことにもよるのかもしれない。MT」

 「場所、もの、人(肉体であり、感覚であり、知覚であり、思想であり…)といったものの関係性の中で浮かび上がってくるのが『健康』だと考える。そう捉えると、健康と不健康は切断されたものではなく、スペクトルのようなものだと考えられるのではないか。健康の対極に不健康を据えることは不可能になるだろう。というのは、対極に据えるためには同じ尺度が必要であって、だが質的に異なっていると考えられる健康状態は、その波(スペクトル)を切り取ることができない(切り取ることは恣意的にならざるを得ない)からである。・・・OD」

 「同年代の人たちと自分の1日の生活スタイルについて話し合う機会なんてほとんどないように思えます。対話の相手を理解し、自分自身の理解を深めるために、一見何ら人によって違いなどない、と思われるような日常生活を語り合うのは極めて大事であると感じました。・・・私は現在、創造性研究に関連する講義『観るということ』でTAをしています。嗅覚視覚を遮断した上でのジュースを飲む実験、触2点閾実験などの知覚心理学のbasicをおさえた上で、われわれが日ごろどれだけ五感を活用して外界を『観ている』のかを認識させようという講義です。そのTAを務めるにあたって今回の講義での体験は大いに役立ちました。・・HT・」

 「視覚・聴覚障害体験で、私は『宇宙に放り出されたような感覚』を味わった。上下左右もわからなくなる。そんななか、隣に人がいてくれることがどんなに心強かったことか。介助の人は私の腰に手を添え、体全体を支えてくれていたのだが、触れている面積が大きいからだろうか、手を握ってくれるよりも安心できた。目も耳も使えない状況下では、触れることから世界が広がっていく。そして介助者が手のひらに書いてくれる文字によって、それが何なのかがやっと形づくられていった。ヘレンケラーが井戸の水を手に感じながらW-A-T-E-Rという言葉を認識する場面があったが、それと同じような体験をしたのだと思う。・・・IN」

 「非日常な体験といえば、授業を通して知り合った吉住さんとの対話、そして視覚障害を持っていらっしゃる吉住さんの普段の環境を、疑似体験ではあるが、わずかながら経験することができた。身体的な障害とともに生活を送る人々からの体験談からその大変さは想像することはできる、しかし体験する機会はなかなかない。いくつかの状況での体験から、障害とともに生活することを『大変』と表現することは失礼なのではないか、という問題意識が生じた。また、障害を持つ人とそうでない人を健常者と障害者という言葉で区別することはおかしいという認識が、以前にも増して強くなった。・・TC」

 「生活を改めて振り返り、カテゴリ化・図示する過程の重要性は、自分の生活をマクロで静的な視点で捉えられるというところにあると思った。自分の生活全般を広く浅く眺め、時間的、空間的な広がりを一時的に排除したかたちでアウトプットすることによって、主な生活の断片がわかりやすい形をもったカテゴリとして認識・意識化されていくからである。さらに重要だと感じたのは、記入した事項をもとに他人と会話を交わすという過程だ。この過程では、日常にありふれているからこそ、改めて意識することがなかった出来事についての自分の思いや考えに出会った。HR」



「対話からの健康認識学」を振り返って

吉住寛之



四日間の講義を振り返って、今心に思い浮かぶのは、三日目に行った視覚遮断体験ワークにおける三四郎池での光景である。私達はワークの途中、水面にきらめく陽光が周囲の木々にも照り映える幻想的な現象に遭遇し、しばし時を忘れ立ち止まり、暖かく優しい何かを共有した。それは、場の雰囲気であり、そこに居合わせた人々に流れる時間と空間と意識が織り成す総体でもあり、皆に等しくアプリオリに去来するクオリアであった。もちろん私自身その光景を視覚的にとらえたわけではないのだが、守山先生の情景説明や漏れ聞こえる受講生の感嘆の声や弾む会話から、私の意識にはそのイメージが立ち現れ、今もなお生き生きとしたイメージを脳裏に宿している。

私にとってこのできごとが象徴する本プログラムは、「健康とは何か」をキーワードに感覚体験、対話を通じて、日々の生活を振り返り、様々な「気付き」の創発と共有を企図する画期的で興奮に満ちたプログラムであった。そしてその中で、私は現代社会において視覚障害という状況に居合わせる者として、様々な角度から受講生が「気付き」に出会えるよう側面からファシリテートすることを役割とした。もちろん、視覚障害自体のバイアスの自覚と、あくまでも個人的体験を超えて語れない言説の限界には気を付け、なるべく普遍性を持たせて語りかけるよう心がけた。その試みの成否は不明だが、少なくとも私の愚かな杞憂を払拭して、受講生は既に先の理解に到達し、更なる関心事へと進んでいた。

このレポート集を読まれた方はお分かりになるであろうが、受講生は何と多くの様々な「気付き」を創発し共有していたことか。人との対話を通じて、自然との対話を通じて、そして自分との対話を通じて・・・。私の予想を遥かに超えて受講生は多くの豊かな気付きを育み、それぞれ新たな理解と関心の地平へと進んでいったように感じる。「おわりに」で守山先生に「このような学習と共有の場が持てたことは、教師冥利に尽きる」と言わしめていることが物語っているように、本プログラムの成果は掛け値なしに素晴らしい。

更に、このレポート集を読み終えて改めて思うのは、受講生にこれだけの「気付き」を齎した、周到かつ綿密に練り上げられた本プログラムの構成の妙である。各テーマの選択はもちろん、その段階的順序、また「気付き」を促す仕掛けや道具の開発とフィッティングに至るまで、さりげない気遣いときめ細かい工夫がなされ、受講生を静かにしなやかに「気付き」の世界へと誘っている。これ無くしては本プログラムの成功はなかったであろう。ここに守山先生の教育者としての姿勢に心から脱帽すると共に感服するしだいである。 21世紀に入っても、未だ心脳問題、心と意識の問題は、ハードプロブレムとして解決困難な100ノーベルの最重要の科学的課題とされているが、近時脳科学の発展により、ミラー細胞等が発見され、心の理論の一端が垣間見られ始めている。その前提としてよりベーシックな感性の理解、意識化が人間理解に齎す重要性は計り知れない。なぜなら、これまで暗黙裡に見過ごされてきた近代の知の枠組みをも一変する新たなパラダイムに行き着く可能性を秘めているからである。現代社会はあまりにも視覚に特化し、その知の構造は言語や思考は言うにおよばず、感性の理解にも無自覚に潜入している。このことに自覚的に対処し、今一度人間が持つ本来の感性の開放を招来して、日々の生活や社会の在り方を見つめ直す意義はとてつもなく大きい。その先には感性に根ざした親近感のある他者理解(追体験)というシンクロニシティがあり、やがてはそれが「思いやり」として語られる人間理解、分かり合いの本質的な構図であることに思い至るであろう。これまでの対象から独立した観測者という夢想を超えて、知的探求者も複雑系という相互関係性の世界に分け入ったとき、私達も自らの心や意識のはたらきをあるがままに自覚的に感じ、新たな知の扉(ゾーン)を開くのかもしれない。  最後に、この学習と共有の場に参加させていただく機会を与えていただいた守山先生、並びに、暖かくうけいれていただいた受講生の皆様に心より感謝するしだいである。大変有意義で非常に充実感のあるプログラムに参加でき、また一つ、新たな出会いと経験の機会を得たことは望外の喜びであった。今後この気付きの学習と経験を基に、受講生がそれぞれの知的フィールドで、研究や生活に活躍されんことを祈念して結びの言葉とする。



自己紹介

1973年に福岡県福岡市に生まれる。11歳のときに医療過誤で失明。大学・大学院では法律を専攻し、その後ユニバーサルデザインの思想を基軸にした、ICT支援、まちづくり、福祉、就労、教育、芸術、医療といった分野での社会・地域貢献活動を展開。現在筑波大学理療科教員養成施設で、統合医療を研究し、東洋医学の教職課程を履修中。

2008年2月末日 春風舞う文京区目白台にて 吉住寛之



おわりに


  「見えない、聞こえないなどの感覚的な体験」、「助ける、助けられるといった援助の体験」、「自分の考えを振り返ることで新たに捉えられる自分自身の存在」、「対話の中から気付かれる他者の存在と自分の位置」、等々、本集中授業における問題提起と学習は、体感的/経験的な側面を多く含んでいた。そのために、4日間の集中授業で起こった全てのことを記録するのは、不可能に近い。しかし11名の受講者のレポートは全てを記述してはいないにしても、4日間の体験を思い起こし、そこから学び続けるための貴重な入口を示している。この授業を通して、健康は生成されたのだろうか、生成されたのだとしたら、その健康とは、何だろうか。今後、解明して行くべき課題は多い。

二年に一度の集中授業という形で、このような学習と共有の場が持てたことは、教師冥利に尽きる。このような授業の開講を認め、それをご支援くださっている東京大学教育学部と、衛藤 隆先生に、深謝申し上げる。
受講者が得た結論の一部を、以下に抜粋して、終りの言葉に代える。

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「日々の生活が健康を育み、そして量的な形で測られるのだとしても、やはりその量的な変化には、日々の生活の構造の質的変化が見出される可能性は大いにありうると思われる。量的な調査によって実証的なデータをとる研究がある一方で、日々の生活を丹念に見出し具体的改善案の糸口を提供するだろう質的調査は相補的な役割を果たすのではないか、と考えられる。ここで挙げられた問題は、今後自分の研究を進めていく上で、またその意義を考えていく上での長期的な宿題となったように思う。例えば、寝がえり一つをとっても、それがその乳児の生活の中で徐々に獲得、上達されるものであること、逆に、寝がえりをうてること、またはうてないことが、その乳児の生活にどのような意義、問題を生じさせるのか。そうした関連を見出すことで、自分自身の研究の意義は明確になるように思われた。YM」

「授業での介助され、介助する体験を通じて、人とのつながりの大切さ、信頼関係の重要さを実感した。自分自身も様々な人に支えられていることを感じ、また見守っていてくれる人がそばにいてくれることのあたたかさが自分の安心感につながっていることに気づかされた。視覚・聴覚障害の体験で得た知識も多かったが、介助から得たものも非常に大きかった。・・・モンテッソーリにおける感覚教育は、おもに幼児期について述べられている。しかし、成人後も感覚は日々変化し、成長していくものと考えられる。成人の感覚教育についても、これから考えていく必要があるのではないかと感じている。YN」

「その人が健康的な生活を達成するための情報は、本当の意味で『選択可能』である必要があり、自分以外の人間にとって本当に有用な情報の共有は、行政、地域、個々の人間同士、といった様々な社会的レベルでのcaringがあって始めて実現される、ということが、オタワ宣言が掲げる信念なのではないだろうか。今回の講義は、私にとっての『私の健康』と他者にとっての『私の健康』を、複雑に絡み合った位相として、個別的かつ相互関連的に理解する非常に刺激的な経験であった。特に吉住さんからの情報は、私にとってより豊かな健康、生活、世界の理解につながるもので、貴重な情報共有の機会を得られたことに感謝しています。TJ」

「私は『障害者支援』の視点から、一つの重要なポイントを見出した。つまり、上述の認知スタイルである。彼らの認知スタイルと彼らの認知発達を把握し、媒介と機能をより効率的に働くようにすることが、今後役立つ、と考えるに至った。いわゆる、形・色・空間・言語などの情報が、いかに媒介されて入力され、またいかに受け入れられるのを明らかに出来れば、発達段階における困難を解決するための道具となり、社会や公共の環境などが改善できるだろう。一番素朴な考えでは、お店の従業員さんが常にお客様の目と顔を見れば、耳の不自由の方には便利であろう。今現在の音を受け入れ可能の信号を変える聴覚補助機材のように、目の不自由の方にも受け入れ可能な信号を見つけ出し、視覚補助機材も作れるだろう。SI」

「私は『ヘルス・プロモーション』とは現状を維持することである、と考えていた。今回の講義を通して、この考えが一部では合っているものの、もっと拡張して考えるべきことであることが分かった。つまり、個人が現在の状態をなんら過不足ない状態であると考えている場合、それは健康であるといえる。しかし、その状態がこれからも続くかどうかは不明瞭である。今の状態が過去の経験から構築されているように、将来の状態も今後得られる経験によって規定されていくからである。そこで自身が将来ありたいと思う姿をイメージし、それに合うように生活を形作っていくことが大切である。生活を形作る上では、他者、外界とのインタラクションが不可欠である。SN」

「目の見える、画像イメージ駆使することのできる私たちは、実は視覚に頼るがあまりその言葉をおざなりにしているのではないか。吉住氏が『小説を読むように目の前の事実を理解していく』といった言葉が印象的であった。集中講義期間に吉住氏の丁寧な説明を聞いていて、私自身が将来文章でもって自分の見聞きした体験を論文や書物としてまとめていこうとするとき、自分が目を閉じてその現象から離れた場所にいても、その体験をその場にいなかった他者に説明しようとするだけの説明力が重要な役割を果たすのだと痛感した。無意識に自分の中で統合され、そして一つ一つの動作の統合が無意識に行われて、日々の生活を成り立たせている。そうした自分の持つ多くの感覚が日々絶えず働いていることが、健康が日々の生活の中で創発されるのに不可欠である。MT」

「理想的な『健康な状態』、本質的な、前提としての『あるべき』健康などないと思う。『ここ』で私が、他者が、友達が、家族が、構築することで『ある』ものである。・・・今回の体験で障害者の経験をなぞらえたとは、とても言えない。だが、相手を分かる、自分を分かってもらうということを、『気持ち』のような抽象的なレベルから一歩踏み込んで、私の、相手の『見ているもの』『聞いているもの』『知覚しているもの』『認識していること』という具体的なレベルで経験したことは大きな意味があった。・・・育むべき健康が具体的に形作られている部分を、いくつかの観点から切り出した今回の授業を通して、『そして何ができるのか』は、今後の個人の(つまりは社会の)日常的な活動に直結することを了解した。それは、『答えのない』あるいは、日々常に『答え続ける』問いとして、残っていくものであると思う。OD」

「今まであまり気にも留めていなかった諸感覚を今回のように駆使することが、自分の身の周りの何気ない世界に新たな意味や発見を与えてくれること、もしかしたらその気づきが、私の取り組んでいる研究である創造性の1つの端緒になりうるということにも気づかされました。・・・これらの発見は、自分自身の積極的参加と、吉住さんの指摘なくしては得られないものでした。芸術家という方々は、われわれが普段見過ごしがちのそういった感覚を徹底的にセンシティブにすることによって、優れた絵画なり音楽なり文学なりを創りだしているのかもしれません。そして、何気ない日常を鋭い感覚をもって過ごすことで、より面白くてハッピーな生活を営めるのではないかと感じたのです。そういった認識こそが、今回の集中講義において最終的に私が感じた『健康である』ということでした。HT」

「隣の人の手、声、雰囲気、陽の光、生き物や自然のものの持つあたたかさは、4日間の体験中、私をほっとさせてくれた。・・・私がテーマにしている芸術治療教育では『美しいもの、真なるもの』がひとつのキーワードになっているのだが、これは『健康』とも言い換えられるように思う。・・・これから、講義での体験とフィールドワークでの子どもとのやり取りを重ねながら考えていきたい。4日間の講義では、障害の有無にかかわらず、人によってものの見方が違うということに改めて気づかされた。目が見えることで見えなくなっていることはたくさんある。そのことを忘れず、普段の生活の中でも立ち止まる姿勢を大切にしたいと思う。IN」

「普段はあまり顔を合わせたり、会話をすることのない他コースの学生の方たちと密な内容の活動を通して、予想以上に親しい関係を築くことができ、だからこそ真剣に意見を聞き、面白いと感じれば素直に笑い、好奇心を抱けば率直に質問してみたりすることもできた。・・・その環境で私自身が自分の関心の赴くままに突如発生することもあった好奇心と向き合い、意見を言い、そして他者と触れ合う機会を持つことができた。そこで私はほとんど開放された状況であり、振り返ってみるとこれも1つの精神状態として比較的非日常でありながら『健康』な状態であったのではないかと思うのである。・・・自分らしい生活が個人にとって自己を開放できるような環境を提供するものであれば健康を推進するものと考えられるのではないだろうか。TC」

「自分の生活や考えを見直す上でとても重要だったのは、他者との相互作用であった。他者と意見を交わし、触れ合うことで、より自分自身を知ることができた。『普段の生活の中で、視覚の喪失と同じように、他者の喪失が起こったら』と想像すると、自分の存在を支える他者の存在はおそらく想像も及ばないほど重要なものなのだと思う。自己は他者がいて初めて認識されるものなのかもしれない。他者との相互作用の中で自己を認識し、その認識がヘルスプロモーションの出発地点となる可能性を感じた。HR」



授業進行日程表

第一日目(12月18日)

 午前 ・授業概要の説明、文献の配布と解説
    ・主要概念を自分で考えて行くための問題提起「健康が毎日の生活から生成されるとは?」
    ・受講前の状態の自己評価
 午後 ・問題提起;日常生活を二つの次元(食、行動)へと解体し、再統合することの意味
    ・問題提起;参加的、対話的に生活と健康を探索するために
・生活に関する価値観を解体し統合する試み(Wifyの演習と討論)
    ・生活行動を解体し統合する試み(生活マップの演習と討論)

第二日目(12月19日)

 午前 ・問題提起;改めて、日常生活とは何か?
    ・生活に関連して、食の意識を解体し統合する試み(食のイメージマップ、演習と討論)
 午後 ・問題提起;日常生活を異なる感覚状態へと解体することの意味
・問題提起;生活の中で視覚はどのような働きをしているか
    ・視覚を制限する試み1; 視覚障がい下、屋内での探索的な歩行、手引き歩行



第三日目(12月20日)
 午前 ・視覚を制限する試み2;視覚障がい下、白杖を持って屋外を歩行する
    ・討論;視覚の制限から何が分かったか、自分と周囲はどう変化したか
 午後 ・問題提起;生活の中で聴覚はどのような働きをしているか
    ・聴覚を制限する試み
    ・討論; 聴覚の制限から何が分かったか、自分と周囲はどう変化したか



第四日目(12月21日)
 午前 ・問題提起;生活の中で触覚はどのような働きをしているか
    ・触覚に集中する試みと討論
 昼  ・視覚を制限する試み3;視覚障がい下で昼食を食べることの意味を考える
 午後 ・問題提起;主要な二つの感覚が制限されたとき、頼りになるのは何か?
    ・視覚と聴覚を共に制限する試み、体験と討論
    ・受講後の状態の自己評価
    ・最後の問題提起とまとめ:健康に関して、自分と周囲に何が起こったか?
                 改めて、生活から健康は生成されるのか?


授業中に配布した文献の出典

文献1; Sackett DL, Rosenberg WMC, Gray JAM, Haynes RB, Richardson WS. (1996) Evidence based medicine: what it is and what it isn't: It's about integrating individual clinical expertise and the best external evidence. BMJ, 312(7023): 71-72.
文献2; 久保田賢一. (1997) 質的研究の評価基準に関する一考察、パラダイム論からみた研究評価の視点. 日本教育工学雑誌、21(3): 163-173、
文献3; WHO (1986) Ottawa Charter for Health Promotion, First International Conference on Health Promotion. Ottawa, 21 Nov.1986. WHO/HPR/HEP/95.1
文献4; Conger JA, Kunungo RN. (1988) The Empowerment Process: Integrating Theory and Practice. Academy of Management Review, 13(3): 471-482.
文献5; Antonovsky A. (1966) The salutogenic model as a theory to guide health promotion. Health Promotion International, 11(1): 11-18.
文献6; Novak JD. (1993) How do we learn our lesson? Taking students through the process. The Science Teacher, 60: 50-55.
文献7; Kolb DA, Boyatzis RE, Mainemelis C. (2000) Experiential Learning Theory: Previous Research and New Directions. Sternberg RJ and Zhang LF. (Eds.), Perspectives on cognitive, learning, and thinking styles. NJ: Lawrence Erlbaum.
文献8; Burgstahler S and Doe T. (2004) Disability-related simulations: if, when, and how to use them in professional development. The Review of Disability Studies, 1(2): 8-18.
文献9; Simmons SS and Maida SO. (1992) Reaching, Crawling, Walking. Let’s Get Moving. Guides by Blind Childrens Center, Los Angeles.
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