c 大学授業

「社会医学的接近とは何か」 2008年8月の授業

1970年から2010年へのメッセージ
全国から集まった医学生30人への授業、ダイジェスト。2008年8月15日、社会医学セミナー、富士Calmにて。
キーワード;  社会医学授業、時代推移、公衆衛生学、 ソーシャルキャピタル、社会医学的研究、health-promotion

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「参加型の知識構築」 1999年11月の授業

メディア教育開発センター 1999年度研修事業、1999年11月16日(火)午後5時15分-午後6時45分
医学・看護学の授業改善-「SCS研修-医学・看護学における学生参加型授業の工夫」
参加型の知識構築; 授業と学生を通して現実を学ぶ
守山正樹

1.はじめに; ある日の授業からの問題提起


授業における参加で重要なのは、その授業が一方的な情報伝達の場ではなく、そこに様々な関わりが生まれ、それ自体が学習の糧となることである。では、授業で関わり合いを生じさせるには、どうすれば良いだろうか? 例えば学生に小グループをつくらせ、そこで話し合いをさせれば、関わり合いが生じるのだろうか? そうであれば参加の問題は、小グループのダイナミクス形成技術に帰着されよう。しかしこの方向で論じられる参加は、参加の一部分であるように思われる。 ここでは筆者が勤める大学で一ヶ月ほど前(1999年9月27日)に体験したある授業を素材として、参加をめぐる状況と課題を考える。

学生たちに話をしてくださるSさんと、そのSさんを誘導してくださっているボランティアのMさんとともに、扉を開けて講義室に入った。Sさんは40歳で失明したが、その後、歩行訓練を受けて職場に復帰され、現在は保険会社のサラリーマンとして、通常の勤務をしている。医学部の1年生が、医療/医学とは何か・医療とは何かを学ぶために、医学概論の時間が設定されている。「視覚障害とは何かを体験的に語ってもらえないか」とSさんにお願いし、快諾を得たため、今日の授業に至った。 

授業開始時間を既に過ぎているというのに、学生たちはなかなか着席しない。1分、2分と立つが、悪びれずに、まだ講義室に入ってくる学生がいる。 

授業の冒頭に、今日学生たちに話をしてくださるSさんと、そのSさんを博多駅から大学まで誘導してくださったガイドボランティアのMさんを学生に紹介する。学生たちは、まだよく事情が飲み込めていないらしい。「Sさんは今日、どのようにして長崎から福岡に来たと思うか」と、前列の男子学生に質問した。このように私が聞けば、学生は一応の答はする。「誰かの車に乗せてきてもらったのでは」という答えが続いた後、「その手に持っている棒のようなものを使って、自分で列車に乗ってきたと思う」という答えが、始めて得られた。心なしか、クラスがざわついた。 

 Sさんのような状況の方に話を聞くことは、学生は始めてに違いない。Sさんが話し始めてから一区切りつくごとに、私は「質問がある人は?」と学生に問い続けた。しかし、誰か手を挙げて質問するでもない。では学生たちは話を聞いていないか、というと、そうでもない。普段よりは真剣に話を聞いている様子は感じられる。しかし、その一方で、後ろの方でボソボソと声が続いている。「普通の授業では、君らが小声で雑談しても、それほど気にならないこともあるけれど、今日はちょっと違う。見えないSさんは、大部分のことを音から判断しているんだよ」と、私が見かねてひとこと言ってからは、静けさが増した。 

しかし、静かだから話しやすいかと言えば、そういうわけではない。「この部屋には、どのくらいの人がいるのですか? 男性が何人かいることは分かりましたが、女性はいないのでしょうか.人の気配はしますが、部屋全体にどのくらいの人がいるか、になると私にはよく分かりません」さらにひとしきり、失明に至る体験を語ってくださった後で、Sさんはそう言った。「私は見えませんが、気配によって分かることはたくさんあります」、「私は長崎の保険会社で、新人の研修を担当していますが、彼らの一人が研修中に居眠りしたときは、気配が消えることで、それと分かります」、とSさんが言ったところで、はっきりとクラスがざわついた。 

「Sさん、せっかく我が大学の臨床講堂にまで来てくださったのですから、あまり遠慮しないで、この講堂がどんなところか、もう少し、触れてみてください」と私が言うと、Sさんは嬉しそうに「ではちょっと、触れさせてもらいます」と言って、最前列の右手から机の縁を触り始めた。Sさんの手が近づくと、最初の学生は困ったような顔をして、出していた筆箱を引っ込めた。しかし、二番目の学生は目前まで近づいたSさんに、「今日は!」と声をかけた。嬉しそうに挨拶を返したSさんは、さらに左に手を動かして行き、「これは3人掛けの席ですか」と言った。私が「5人掛けです」と答えると、「ああ、大きいんですね」、さらに左後ろの背もたれにまで手を伸ばし、「え、こんなに椅子の背が高いんですか」、「こういう椅子が並んでいるとすると、この部屋は、やはりとても大きいんですね」とSさん。さらにクラスが一瞬ざわついたところで、「Sさんに何か質問は?」と、今度は女子学生にマイクを向けて行ったが、最初の学生は首を傾げるだけで無言、次の女子学生がやっと「趣味は何ですか?」と口を開いた。 

そうこうしている内に、授業時間は残すところ5分間となった。「せっかくSさんが話をしてくださったのに、君らからの自発的な質問はゼロ。それでも目で見ることができれば、この部屋にこんなに多くの学生がいると分かるのに、Sさんは見えない」、「男性ばかりでなく、女性もいるということさえ、分かったばかりだ」、「Sさんの話はこれで終わるけれど、せめて最後にSさんに、君らの存在と関心を示して欲しい」、「拍手すれば聞こえるし、握手すれば、君らの存在を実感できるかもしれない」、と言って、授業を終えた。 

その瞬間、大きな拍手が始まった。気がつくと、40人近い学生が列を作って、Sさんの前に並んでいる。先頭の学生がぎこちなく手を差し出し、「素晴らしい授業をありがとうございました」と言った。Sさんの顔は、笑顔一色になった。数人の握手が続いた後、新たに握手の順番が来た学生は、握手する前にそっとSさんの手に触れるか、何か言葉をかけるようになった。ここに来て、堰を切ったように質問も出始めた。「夜と昼の区別は、どうしているんですか?」、「夢を見るときは、どんな夢ですか?」、「握手するだけでも、相手のことが分かりますか?」、「私も長崎出身ですが、Sさんのお住まいはどの辺りですか?」…、Sさんの手を握り締めたまま、質問が続いていく。「何かを聞いて、メモするときはどうするのですか?」とある学生に聞かれたSさんは、カバンを開けて、携帯用の点字器を取り出した。Sさんに勧められた学生は、その場で自分の頭文字を点字に打ち始める。もう一人の学生はSさんが取り出した点字毎日を、珍しそうに見つめ、指で触れ始めている。気づいたら、授業が終了してから30分経っていた。Sさんを誘導して講義室を出ようとしたとき、最後の学生がそっとドアを開けてくれた。 

さて、この授業で起きたことは何だろうか。授業の冒頭にみられるのは、授業を聞こうとする意欲も表向きはそれほど感じられない学生たちである。「質問は?」と聞いても、質問が出てくるわけでもない。この点では、存在感も希薄な感じがする。その学生たちに向かって、見えないSさんが語りかけている。相変わらず、学生からは質問も出てこないが、わずかな気配やざわめきから、学生の間に何かが起こっていることは感じられる。そして授業の終わったとき、通常は起こらないような反応が、講義室全体に広がった。静かな参加の潜時を経て、突然に、学生の自発的参加が始まったのである。Sさんが、見えない眼で学生の存在を感じ取り、それに働きかけ、そこにいるはずの学生のリアルを感じ取ろうと試みている様が、学生に伝わり、学生の心の中にもリアルが形成されて行った。
このようなリアルな体験を、どのようにして学生の心の中に作り出すか、それを通して学生が教師の側が伝えたいと願っているリアルなものに近づき、それを超えていってくれるのか、それが本稿で語りたいことである。

2.参加の捉え方


2.1.公衆衛生学・社会医学の現状から見た参加の大切さ


筆者が専門としている公衆衛生学は、水資源や廃棄物など“物質的な環境”に関することから、人の生き甲斐と健康など“生活の質”に関することまで、多様な話題を扱っている。高校までに学習する科目との対比で言えば、保健、社会、倫理、家庭、技術、生物などの広い範囲を含むことになる。医学部らしい点と言えば、そのすべてが“職業としての医療と保健”に関連していることだ。この公衆衛生学分野での典型的な教え方は「まず健康や環境に関連した概念を定義し、その定義に従って現状を描写し、現状をコントロールしている社会的仕組みを説明する」というトップダウン的なものである。このように教えられると、確かに分かった気にはなるが、自由に物を考える余裕は無くなる。真理が一つしかないのであれば、概念定義も絶対的なものであり、考えるよりは記憶することが、学習の中心になるのも当然と言えよう。しかし公衆衛生学の落とし穴の一つは、そうやって、トップダウン的に教えておきながら、その概念自体が、時代や状況によってガラッと変わることにある。 

例えば、世界保健機関は健康を従来は「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、…」と定義して来た。しかし、しばらく前からこの定義にSpiritualという項目を付け加え、「完全な肉体的、精神的、Spiritual及び社会的福祉のDynamicな状態であり、…」と改変する方向で、国際的な議論が煮詰まりつつある。その結果、我が国でもSpiritualを日本語にどう翻訳するか、などの議論が公的な場で突然になされるようになった。では新たな定義が確定したら、今度はそれを学生に覚えさせればよいのだろうか? よく考えてみれば、誰がどう定義しようと、健康などというものは、主観的な側面なしに語ることのできないものである。極端に言えば、人の数だけの定義を考えることも可能である。そうであれば“最初に概念定義をしない学び方”、“もっと自由な学び方”、“学生も参加できるような学び方”、“ボトムアップ的な学び方”があって良い。 

では、そのような“自由で参加的な学び方”とはどのようなもので、それを実践するには、どうしたらよいだろうか。何かを学ぶ、というとき、常に大切にされて来たのは、知識の量である。大学で学ぶ公衆衛生学においても、知識の量を増やすことは、一つの目標とはなろう。しかし、学生が既に学ばされてきた著しい量の知識を考えたとき、それ以上、さらに量を増やすことが本当に重要か、は問われてよい疑問である。かって筆者が医学部3年生への授業に備えて、環境汚染に関する資料を作成していたときのことである。長女(当時、小学校5年)の社会科教科書を何気なく開いたところ、話そうと思った水俣病に関連して、水俣湾における月別漁獲量のグラフなど、筆者が準備したよりも詳しい資料が掲載されており、衝撃を受けた。学生たちはこれほどのことを学んでいながら、その知識がただ頭の中に積み重ねられたまま色あせ、言ってみれば、知識が死んだ状態になっているのである。知識の量を増やす以上に、すでに持っている知識を“生きたもの/リアルなもの”にする作業が必要とされている。この作業の鍵を握っているのは、日々の生活であり経験である、と考えられる。 

社会と医療が激しく変化を続ける現代において、その激動に身を任せながら日々を生きている、という点では、学生も教師もそれほど立場に変わりはない。こちらがこちらの立場を生き、その中で研究し教育をして来ているのに対し、学生たちはまた彼らの立場を生きてきている。私の場合、生まれてから今まで48年間の経験があるのに対し、彼ら一人一人は平均すればその半分以下の経験しかないのではあるが、しかし学生はクラス全体で100人もいるのである。私の48年間×1人の経験、さらに彼らの22年間×100人(2200年人)の経験を、リアルに近づき、リアルを学ぶための貴重な資源と考えることは、できないものだろうか。

2.2.参加における二つの要素(二種類の参加がある) 


一人一人の学生がその内部に持つ貴重なもの(経験・価値観・判断力など)が、表出されることがなく、その一方で、こちらが用意した知識を学生に詰め込んでいる状況が、物を言わず参加もしない大勢の学生を生み出している。ここからから脱するためには、以下の二点が重要だと考えられる。

1)グループダイナミクスにおける課題

重要なことの一つは、学生が自由に考え、その考えを口に出し、さらに他者が出した考えと自分の考えをすりあわせていくような“意見交換から意見集約に至る過程と技術”である。これには、話し合いをさせる学生の数を何人にするか、など学生のグループ設定から、混沌としている意見を無理なくまとめ上げる過程での知識・情報整理方法(例えばKJ法やコンセプトマッピング)の活用まで、学生のグループダイナミクスに関連したさまざまな事柄が含まれる。一般的に言えば、十分な時間が確保され、学生が話しやすい小グループに分けられ、リラックスしたムードの中で興味深いテーマに出会えれば、意見交換は確実に活性化し、“参加”が進む。しかし、これには落とし穴がある。優秀な学生たちが、自分たちの向かい合う対象が持つ社会的側面の深刻さに気付かずに、希薄な問題意識のまま調査や学習を進め、発表を企画する過程で、医療・医学系の学習者・研究者が最も大切にすべき“人間としての対象者の存在”を忘れてしまうことも起こり得る。数年前、ある学生グループが“自殺する人々”をテーマに社会医学実習をしたことがあった。その発表会でのことである。“はじめに”と“方法”の部分を数行の説明で片づけた彼らは、その後、自殺に関する様々な集計結果を示し、「入水による自殺未遂から自殺に至る過程で、~のような興味深いパターンが見られた」等々と説明を続けて行った。この間、発表を聞いていた同級生達が次第にざわつき始める異様な雰囲気の中で、発表者の学生たちは「遺書の内容が8群に分類できた」としてその詳細を述べ、最後には事例検討としてある中学生が書いた遺書を朗読し始めた。著者はこのグループを直接に指導して来たわけではなかったが、黙って聞いていることに耐えられず「一体、何の権利があってそのような発表をするのか」とそのグループに問いかけた。しかし“そのようなことはすべきではない、他にもっとすべきことがあるのではないか”という著者の主張は、学生たちには届かなかった。彼らの主張は要約するとこうなる;「我々は自殺を予防したいのである。我々は自殺者の人権には最大限の配慮を置いているが、本研究では自殺者のリスクファクターを探るために、公衆衛生学的切り口と手法で、遺書の内容も含めデータを客観的に処理した。数字だけでは自殺者の気持ちに触れることが出来ないと考え、遺書の内容にも触れた(ここまでしているのに、このどこが悪いというのですか!)」。このような学生の主張に対し、実習指導者はどう対処すべきだろうか。著者はこれまで何人かの方々の意見を個人的に聞いてきているが、肯定的なものから著者の立場に近い否定的なものまで様々である。しかし著者はこの“事件”をきっかけに、公衆衛生学の教育と実習について根本的な見直しを考え始めた。

2)一人一人が自分のリアルを見つめる方向での課題 

“リアルを忘れた暴走”をさけるためにも、「意見交換/集約の前提を形成すること」、すなわち「一人一人がしっかり自分自身に向き合い、自分のリアルに参加し、着実に考えること」が大切である。どれほど学生たちが意見交換/集約の技術を身につけたとしても、その交換・集約の基礎となる個々の意見や知識が、不確かで現実性の乏しい自己から発せられるものであれば、まとめの技術は不毛なものになる。 社会医学を成立させているのは、社会、環境と言った極めて総合的・包括的な概念・枠組みである。学生たちは、医師としての技術を身につけ、社会に出ていき、あるいは病院の勤務医として、また地域の開業医として、実際の社会に向き合うことになる。このような将来を持つ学生たちにとって、学生の時から社会や環境のリアルを、自分の立場からどのように位置づけるかは、極めて大切なことである。しかし学生たちの多くは、既に述べたごとく、大学入学の遙か以前から、大量の知識をトップダウン的に教え込まれ、それに辟易している。 あまりにも多くのことを何となく知っており、一応知った上で、無関心になっている。このような学生が新鮮な驚きを取り戻し、改めて社会や環境の定義までをも、自分で考え始められるようにするには、どうしたら良いだろうか? この方向に関連して、筆者が行っているのは、対話の中で、学生に周囲を見つめることを勧め、その視点をさらに拡大して行くような方法である。本質は、知識自体を参加的なものに変えることにある。

3.リアルを求める

インターネットを利用すれば、どのようなことも調べられるように、現代の我々は情報に取り囲まれて生きている。携帯電話を使えば、どこにいても、殆ど誰をも、瞬時に呼び出し、話ができそうである。しかし平面テレビの企画化された画面や、限定された周波数の電子音から認識される現実は、仮想的なものである。生身の人間の疾病や健康に関わる職業に将来就くはずの学生たちは、仮想現実から社会医学を学ぶべきではない。仮想現実に慣れ親しみすぎて、新鮮な感動とコミットメントを忘れかけている学生たちをリアルへと、連れ戻すのはそれほど簡単なことではない。教師である私自身が仮想現実の中に浸かっている事実も、困難な理由の一つである。しかしその気になれば、リアルはいろいろなところに見出せる。リアルを至るところに見出し、共有するなかで、参加的な学習が進む。

3.1.講義室の中で“リアル”へと接近するための道 


講義室は、実社会からかけ離れ、リアルとは一見縁が遠い場所である。しかし各学生のリアルに着目することで、新しい世界が拓けてくる。

3.1.1 自分の中のリアルに目覚める

1)記憶・体験をリアルへつなげる; 医療の社会的側面への参加的理解 

医師を目指す学生に、疾病・発達・成熟・老化・医療などの社会的な意味を教えようとするとき、何を出発点とすべきだろうか? 若く健康そうで、経済的にも医学系の大学に進学できるだけの余裕がある学生たちは、一見、疾病とは縁がなさそうである。兄弟姉妹の数が少なく、祖父や祖母との同居経験も少ない彼らは、発達/成熟、老化などのキーワードにも、それほどの関心を示さない場合が多い。しかし本当に彼らが疾病と無縁かと言うと、そうでもない。疾病に関連して、自分自身や家族の体験を思いだし、体験相互を関連づけられるような枠組みを用意した上で、それに書き込むことで簡単な自己分析を行うよう学生に勧めると、多くの体験が浮かび上がってくる。疾病体験だけでも、アトピー性皮膚炎、花粉症、気胸、…と実にいろいろなものがある。自分自身が受けた不適切な対応から医療に不信感を持っている学生も、少なからず見受けられる。個々の体験は確かに断片的なものであるが、それが当事者である学生によって語られ、そのような体験が幾つか集まってくると、そこを通して社会が浮かび上がる。公害病と聞いても特に関心を示すようでもなかった学生たちが、この作業を行ったとき、ある学生が「自分の妹が公害病(喘息)の認定患者だった」と書いてきた。この意見をクラスにフィードバックしたところ、学生たちの顔つきが変わったことがある。縁が遠いと感じていたことが、自分たちと直接につながることで、学生は変わり始める。

2)日常生活に注目し、リアルを見出す; 日常生活と健康の参加的理解 

医師を目指す学生たちは、少しでも早く医師になりたいと言い、早く医学知識に触れたいと言い、社会的なことよりは、遺伝子レベルなどの先端的なことを学習したがる(だからと言って、実際に極めて臨床的な事項や遺伝子レベルのことが出て来たときに、それほど熱心に学習するか、というとそうでもないのだが)。このような学生たちに、日常生活の質や医療の社会的な意味を考えることの面白さを伝えるには、どうしたら良いだろうか。何かをトップダウン的に教えることで、これを達成するのは、容易なことではない。しかし、彼らが日常性の学習に無関心か、というとそうでもない。このことは、健康と日常生活に関連して、何か具体的な質問をしてみれば良い。かって「風邪を引いて発熱したときにどうするのか」を質問したとき、得られた返答は例えば以下のようなものだった(学生A; 熱が出る→病院に行く→薬をもらう→アイスクリームを食べる→…、 学生B;熱を感じる→授業内容を調べる→休む→栄養のあるものを食べる→親に電話する→…、 学生C;まず寝る→コンビニへ行く→おかずの棚に目を走らせる→食べ物を買う→家に帰り体温計を加えて寝る→治りが遅かったら食べ物を差し入れてもらえるよう電話をかけまくる→…)。このような返答は、一見子供っぽく見える。診断学についての学習をほぼ終え、風邪症候群についても知識を持っている学生たちの外見とは、多少隔たりがある。しかしこの試みをしばらく続けると、これが彼らの現実であることが見えてくる。では彼ら自身は、この隔たりをどう捉えるのだろうか。学生の返答を縮小コピーし、事例集にしてフィードバックすると、学生たちは予想以上の関心を示し始める。彼ら自身が、風邪引きに関連して自分や他者の状況を、生まれて始めて知るのである。「そういえば、風邪のときにホットレモンを飲むのは、祖母の影響かもしれない」、「私は自宅なので、風邪を引いてもそばに誰かがいるけど、一人暮らしの人は大変なんだ」、「こんなに人によって考えが違うのに、社会が成り立って行くのはなぜだろうか?」、「皆いろいろなのに、病院へ行くと医師の診断や治療法は大体同じなので、それが不思議だ」等々の気づきも生まれてくる。自分を知り他者を知ることで、興味を持ったり、安心したり、喜んだりすることが生まれる。そのように多様に反応しながら、自分と他者の疾病の背景にある環境や社会の存在が、具体的に再認識され始める。

3)歴史と自分のリアルをつなげる; 社会医学における歴史的側面の参加的理解

社会医学が激しい社会変化の波にさらされていることは既に述べた。健康の在り方、保健の仕組み、など、大切なのはもちろん今日現在の状況である。しかし、今日は直ぐに明日に取って代わられる。移りやすい状況にだけ目を向けていると、むしろ全体の流れが見えなくなる。その意味では、過去の事実、歴史的な事実にも目を向ける必要がある。しかし「過去は凸凹のようであった」と解説しても、それでは学生は考え始めない。例えば「ヒポクラテスは、~の祖であり、~のような業績を挙げた」とトップダウン的に説明しても、学生の現実との間に接点は生まれない。教える側の私自身が、ヒポクラテスの著作に親しんでいるか、と言われると心許ない。このようなときは、ヒポクラテスが書いた原稿の一部を直接に学生に読ませることにしている。直接にギリシャ語というわけにはいかないので、インターネット上で英語訳を探し、短い授業時間の中でしか提示できないのであれば、さらに筆者が和訳した上で、学生にプリントを配布することになる。そのようなとき最初から「これはヒポクラテスの文章だ」などと言うと学生は萎縮するので、何も言わずに学生に配布する。考えさせるテーマによっては、ヒポクラテスの文章の横に、聖書の創世記の記述と、ナイチンゲールの文章を、それも出典は言わずに、並べて置くこともある。このようにした上で例えば「疾病と思われるものの原因に関するそれぞれの記載について、感じたこと考えたことを一言でもよいから、自由に述べるように」と学生に勧める。「各文章が書かれたのは、いつ頃の時代だろうか、何れも疾病と環境の考え方について言及しているが、その言及の仕方に差があるだろうか? 君自身は、これらの考え方に賛成できるだろうか? 君だったら、さらに何かを付け加えるだろうか」と学生に問い続け、思いついたら何でも書き留めるように言っておくと、実にいろいろな意見が出てくる。こうなれば、出典を教えても、学生は動じない。「ヒポクラテスは□△歳くらいのときに、~のようなことを考えていたようだが、私は~~のように考えている。」などという発言が、学生から出始める。ここまで行ったなら「WHOは現在、健康の定義を~から~に変えようとしているが、君はどう思うか?」などと学生に聞いても、学生はもう慌てることがない。

3.1.2.思考実験を行う; いろいろなことに関わって物を考える 

自由に言うことに加えて、思考実験を行う。これを行うことで、リアルに関われる局面がさらに広がる。 

1)計測シミュレーションで環境をリアルに知る; 環境認識/計測の参加的理解 

人間の健康・環境・生活に関連して、その一部分を数量化して評価する、或いはその数量化の手順について学ぶことは、社会医学の重要な課題である。少なくとも1980年代の半ばまで、筆者が務めていた大学では、衛生学公衆衛生学の実習として、水質検査やさまざまなタイプの温度計を使用する温熱環境の測定、騒音計による街頭騒音の測定、などを行っていた。環境科学の細分化、環境に特化した専門職種の増加、医学の高度化など理由は幾つもあったのであろうが、今やこれらの計測実習は昔話になりつつある。しかし、だからといって、こうした計測の重要さが無くなるわけではない。そこで、もっとも簡単な計測器である温度計を例に、計測の意味を説明した後、学生たちには身近な環境を取り上げ、「その環境のどの部分を、どのように計測し、結果をどのように出すか」についての思考実験を勧めている。ここで学生に学ばせたいのは、温度計のような単純な器具にも、計測の本質が見いだせることである。このときに重要なのは、学生に自分の身の周りに注意を向けて、どのようなことでもよいから、何か“環境あるいは環境に関連した事象”を選び、計測すべきものを考えさせる瞬間である。計測の具体を突然に考えるように言われると学生は最初のうち当惑するが、しばらくすると様々な計測の実例を思考実験し始める。学生が考えついた計測の対象は、“水質、空気中の塵、部屋の明るさ”などオーソドックスなものから、“授業の面白さ”など学生らしいもの、“自分の声の大きさ、猫の糞の悪臭”など名前だけ見ると、意味がよく分からないものまで多種多様である。苦し紛れに考えたような対象も見受けられる。しかし対象を捉える具体的な項目まで見ていくと、最初は意味不明に見えたものも、それなりに現実性を持っていることが分かる。“授業の面白さ”を挙げた学生は、「指標は以下の5項目にする;出席率、気温/気湿(学生の興奮度によって微妙に変わる)、教室全体の机上の雑誌/小説の数、学生の頭(眼)の平均高度(面白いほど高い/つまらないと低い→寝る)」、「真面目な学生と不真面目な学生とのバランスのとれたクラスを基準として、指標の数値化と意味づけを行う」、「“出席率、温/湿度、雑誌数、頭平均高度”は、例えばつまらない授業の場合には“50%・22C・42冊・17cm”、面白い授業の場合には“86%・ 22C33%・7冊・35”となる」などの考察を行った。 一方“自分の声の大きさ”を挙げた学生は「自分の声の大きさが相手に不快な思いをさせているかもしれないので、相手が聞き取る声の大きさを、相手の不快さを含めて計測したい」、「街頭騒音一般を測るのではなく、人間の声に反応し、相手の耳に入る音を測れるセンサーを開発する」、「私を中心として、半径何mかごとに配置する;みんなの不快な思いが、計測により数値化される」としていた。 

学生が考えたことを、さらに学生自身にフィードバックすることで、学生自身が目覚め、考え始める。ただ考えるだけでなく、その考えにはさまざまな特徴が見つかる。

2)因果モデルで発病への時間の流れをリアルに知る; 慢性疾患発病過程の参加的理解 

言うまでもないことだが、殆どの疾病には必ず原因がある。患者と出会う医師は、その患者の疾病の原因までも知ろうとする。多くの場合、何らかの原因は患者が疾病にかかる直前の生活の中に見つかる場合が多い。しかし、このような目前の直接的な原因の他に、もう少し見えにくいが重要な、社会や環境と関連した原因を見出すには、どうしたら良いだろうか? 取りあえず即席の知識を身につけようとするならば、「塩分の過剰摂取→高血圧、食事中の繊維成分不足→大腸癌」などの確定した因果関連の表を理解・記憶することになる。しかし例えば塩分過剰摂取が高血圧に至るためには、原因から結果に至る因果の鎖が確定されねばならず、鎖の輪が次々につながるように状況が進行するためには、時間の流れが必要である。目前の患者への対応を考えるだけでなく、患者の背景にこのような因果の流れを感じ取り、疾病の社会的な背景へと目を向けるには、どうしたら良いだろうか? 因果関連は教科書に書いてある(あるいは教科書にしか書いてない)と考えているかに見える学生たちに、因果関連へのセンスを身につけさせるには、間違いをおそれずに、身の回りのいろいろなことについて、因果関連の仮説を立てるように勧めることである。文章で考えるだけでなく、以下のような視覚的な枠組みは役に立つ。気分がすぐれない体験をしたときに、それをもたらした要因を数え上げ、因果関連図を描いてみる演習は、短時間における因果関連の意味を学生に考えさせる。飲み過ぎ、迫っている試験、友人との喧嘩、などが挙がってくる。それでは、そのような毎日を一週間、一ヶ月、1年と継続して行ったとき、20年後の君の健康を損なうことがらは何だろうか、と問うてみる。今度は、ストレスの多い生活、運動不足、高カロリーの食事、環境中の化学物質、などが挙がってくる。「先ほど君が挙げたことと、今君が挙げたことを比較したら、何が分かるだろうか? 君の隣席にいる友人の挙げた内容も見せてもらおう。違いはあるだろうか。」 この辺りまで問いかけを続けていると、自己の日常性を因果関係と関連させた発想が生まれてくる。ある学生はこの作業の後、次のように述べた;「自分だけで考えていたときは、毎日のひどさが続けば、慢性の病気になる、と漠然と考えていた。でも違うようだ。他の人たちの書いたことも見ていて分かってきたのは、一日が1年、10年と行くごとに、自分の生活の特定の部分に悪いことがしぼられて行くようだ。こういうことなら、成人病は予防できそうに思う」。

3)サイコロモデルで確率事象をリアルに知る; 人口現象の参加的理解 

参加するとは、遠くから他人事のようにものを見ているのではなく、できるだけそれに近づき、できればその中に入り込み、その現象を実感することが望ましい。このような観点からしたときに、公衆衛生学の中で比較的教えにくいのが、集団で起こる事象である。 公衆衛生学では数値で集団の事象を記述する場面が多く出てくるが、これらの集団現象が他人事としか感じられない場合には、数値は極めて分かりにくいものになってしまう。このような時は、学生全員にサイコロを渡した上での思考実験が有効である。一人一人がサイコロを振ることで、同じクラスの中に確率的な個別性(確率に合わせた不均一な状態)が生まれる。ある人にはヒットするが、別な人にはヒットしない、という状況がリアリティーにつながる。以下に例を挙げる。 

「これから諸君にサイコロを振ってもらいます。サイコロを振って特定の目が出た人は、病気にかかったり、死んだりする、ということにして、着席してもらいます。病気にかかったことにする(あるいは死ぬ)などというと、当たった人は嫌な気がするかもしれませんが、これは統計的な意味での生と死を学ぶことなので、その点を理解して下さい。」
 「まず全員が立ち上がってください。皆さんは現在20歳代の前半にいます。皆さんの中で、20年後にも生きている人は、どれくらいいるでしょうか。3回サイコロを振ってみてください。二回続けて1が出た後、三回目に1から4が出た人は、着席してください。立っている人の数はどうですか。着席したのは一人だけですね。現代では、このように、皆さんの殆どの人は40歳まで生存すると考えられます。」この最初のシミュレーションで、学生はわずかにざわついた。 

「もう一度全員が立ち上がってください。今度はローマ時代に生きていると仮定します。ローマ時代に20歳代から40歳代まで生き延びるのは、どのくらい大変なことでしょうか。サイコロを一回だけ振って、1か2が出た人は、着席してください。先ほどに比べ、立っている人の数はかなり少ないようです。どんな感じですか。このローマ時代に生きることを、どう思いますか?」二度目のシミュレーションが、学生の間に起こしたざわつきは、一回目とは比較にならなかった。 

小さなサイコロが生み出す確率的な場の中で、学生たちは出生率、死亡率、離婚率、生存率、罹患率、有病率、流行の過程、などの基本概念を、まず感じ取り、そして理解して行く。

3.2.講義室にリアルを持ち込む 


・体験談を聞く。 既に冒頭で実例を述べたので、今回は省略する。



3.3.リアルを求めて、講義室から外に出る


3.3.1. 事例を通して様々なリアルに触れる; 事例研究法の参加的学習 

医学医療を学ぶ学生たちが、これから入って行こうとする医療の世界は、さまざまな職種の人々が活躍する場である。それぞれの職種の人々は、それぞれに医療の中でかけがえのない役割を果たしている。これらについては、医師法、地域保健法、医療法など様々な社会的ルールが定められている。このような社会的ルールも国家試験で問われることがあるため、土壇場でこれらを記憶しようとする学生は多い。しかし、これらの情報はダイナミックに動く医療環境を構成するものではあるが、ひとたびそれが状況から切り離され、例えば「業務独占は~であり、名称独占は~である」などと整理されると、学生にとって耐え難く退屈なものになる。これらを、その生き生きした形態のまま、学生に学ばせようとするには、どうしたら良いだろうか? 

この点に関しては、筆者は学生に身近な処からスタートする事例研究を勧めている。事例研究に際して、出来るだけ気軽に幅広いテーマを話題として取り組めるよう、最初の設定は「医療に関連して身近で人に出会う機会があったら、その人をつかまえ、医療に関して話を聞く」とする。このような設定で最初に出会う難関(誰に、何の話を聞くか)を学生たちに乗り越えさせるためには、二番目の設定が必要なことが多い;「必ず二人以上の人に話を聞くこと/その二人は異なった立場や職種であることが望ましい/聞いた話を相互に比較して考え方の異同を見出すこと」。 現在勤務している大学では、医師の師弟が比較的多いためか、まず親や親の知人である医師に話を聞き、次に同じ職場にいる看護婦から話を聞き、医師と看護婦との関連を中心に医療の意味を考察し始める学生が多い。 

しかし一クラス全体の学生が事例として報告してくる全体を眺めると、医師と看護婦との関連だけでなく、実に多くの状況から医療を見つめる視点が得られる。獣医と医師との考え方の違い、鍼灸師と薬剤師の考え方の違い、救急病院を受診した患者と医師の言い分、など筆者が予想していなかった角度からの考察も現れてくる。こうして、学生は教科書からは学びがたい医療の状況、医の倫理などについて、深い洞察を示すようになる。

3.3.2.アイマスク体験による障害者のリアルへの接近; バリアフリーの参加的理解 

社会医学を学ぶ際に、医師としての視点だけではなく、患者さんの視点、障害を抱えている人の視点について洞察を持つことは極めて重要である。こうした状況にある方々に来ていただけるのであれば、講義室の中にいても学生に洞察が生まれることは、冒頭に述べた。しかし、週末や夏休みなど講義室から外に出られる機会を活用して、より体験的に学ぶことも可能である。筆者がこれまで試した方法の中で、特に有効だと思われるのは、移動あるいは視覚の機能が障害されている方々の状況を、車椅子やアイマスク装着によって、擬似的に体験することである。この種の疑似体験をほんの少し行っただけで、障害を分かったつもりになることは危険である。しかしアイマスク装着による視覚障害体験を例にとれば、この体験が良い指導者(例えばベテランの白杖歩行訓練士)のもとで行われた場合には、学生たちは障害について驚くほど深い洞察を示すようになる。一昨年のことであるが、社会医学実習でこの体験をした学生たちは、講義室で行われた実習成果発表会のときに、自分たちが体験した内容を言葉の時限だけでなく、視覚的・感覚的な時限からも同級生に伝えたい、と言いだした。時間以内に終わることが出来、人に迷惑がかからないのなら、自由にしていい、と言ったところ、講義室の通路を街路に見立てたパーフォーマンスを企画した。講義室の通路を福岡市繁華街の路地に見立てた上で、アイマスクを付けた学生の一人が実際に白杖をついて、そこを歩く姿を同級生に見せた。グループの別な学生は、放置自転車が歩行の障害になったことを思い出し、特別の許可をとった上で、自分の自転車を講義室に持ち込んできた。視覚障害者は僅かな音の手がかりを重視することを体感した別な学生は、講義室の中央に置いてあったスライドプロジェクターのスイッチを入れ、それが果たして歩行の手がかりになるか、と同級生に問いかけた。自分たちが体感した障害者のリアルを、その実習をしていない他の学生にも伝えたい、という熱意が、講義室の中にリアルを生み出し始めた。

4.講義室を越えて; N大学手話サークルの活動


講義室の中で社会のリアリティーに学生が目覚め、参加の輪が広がりだし、それが講義室の枠を越えて広がり出すのは、興味深い現象である。

数年前、当時勤務していたN大学で“障害と医療の社会的側面”という授業を行った。資料として「難聴者・中途失聴者のための病院受診ガイドブック」を用いた。「難聴者のリアルを学生が捉えるのは可能だろうか」と考えながら、読後のレポートを繰りはじめたところ、二人の学生が「私は子供の時に使用した薬剤の副作用のため、左耳が難聴なので、聴診器を使うのは恐い.話が聞き取りにくいし、人の左側にいないと何回も聞き返してしまう.自分のことのように考えて、患者さんに接したい」、「私自身も耳が悪く、声の小さい人に何度も聞き直すことがある。あまり何度も聞くのもどうかと思い、話をやめる時がある」と書いているのに出会った。自分自身の難聴を出発点として、難聴の社会的なリアルを捉える学生がいたのである。二人の発言は筆者にとって重い問題提起と感じられた。しかし講義室で芽生えたこの問題提起は、さらに発展するものだろうか?  そう思いながら残りのレポートを繰っていったとき、最後に以下のレポートに出会った;「(G君)NHKの手話講座テキストに、ろう者の受療時における困難さの記載があった.それ程大きな問題だとは認識していなかった.医師となる以上、障害者への理解に努めたい」、「(K君)私は4月より手話の勉強を始めている.自己紹介はできるようになった.資料のような悲劇をなくすために努力したい.手話は言葉よりも素晴らしいコミュニケーションの方法だと感じている」。 

G君やK君らの問題提起がきっかけとなって、その一ヶ月後にN大学医学部としては始めての手話を学ぶ学生サークル(どんぐりの会)が誕生した。誕生前後の状況を、K君は以下のように部誌に記している;「当日まで僕は不安で仕方なかった。部員が集まらず、講師の先生にも来てもらえず、僕一人が広い部屋の片隅で手話している、という夢を2度、3度と見た。肝玉の小さい僕はよく悪夢にうなされる.今回は特にサークル設立がかかっていたので、悪夢が正夢にならないことを祈るばかりだった. 第一回の集まりは11月28日、午後5時から医学部研究棟の集会室で行われた。10脚ほどの椅子があったが、とても足りない。何と40名以上の参加者があり、熱気でむせかえるようだった。その後、毎週月曜の午後6時から会の活動を続けている。最初の9回はS氏(N大学耳鼻科言語療法士)が講師をして下さり、自己紹介、日常の挨拶、指文字、数・時間・曜日の表現、簡単な物語作成、等を学んだ。5月から7月までは、県ろうあ協会N支部のH氏とN手話サークルのM氏とが講師をして下さり、10回にわたって手話の基本表現復習、福祉機器、ろう者の生活、会話練習(待合室・診察室・病室で)、手話通訳の頼み方と関係する組織、等を学んだ」
 この手話学習活動は、学生たちが医療の場面で使われている様々な専門用語(業界用語?)の難しさに気付く契機となった。学生たちは、実際の診療現場で使われている言葉を調べ、それを手話で表現する試みを通して、医療現場にふさわしい言葉とは何かを考え始めた。

5.さまざまな参加


ここまで書いてきたのは、医学、特にその中の社会医学・公衆衛生学に関する参加的な知識構築と学習の試論である。 

この参加の視点を公衆衛生学の時間に持ち込むことは、筆者にとって、ささやかながら勇気のいることであった。医に関する専門知識を教えるはずの医学部講義室に、日常性を持ち込むことがためらわれたのである。例えば、疫学の授業にかける時間の一部分を割いて、「君が風邪を引いた場合、何をする?」という質問を学生にしたらどうか、と考え始めてから、実行するまでに、数年を要することになった。しかし、いったん学生のリアルが見え始めると、ためらいは消え始めた。 

参加は、それほど簡単なことではない。しかし、学生のリアルと教師のリアルとが、よい形で出会えると、素晴らしい結果が生まれ始める。この方向の参加に関し、私は(我々は?)まだほんの入り口にいるような気がする。参加的な知識がもっと普遍的なものになるために、さらに多くの試みと研究が必要とされている。

本稿では、社会医学の授業に関して、参加を考察した。しかし、参加の重要性は、授業に限られるものではなく、研究においても医療においても、参加が十分に論じられる必要がある。筆者はこの半年ほど、保健活動に関連して、参加への途を考察してきた。この方向での参加にもご関心のある方は、是非、厚生省のホームページを開き、健康日本21に関連した“参考”の部分を読んでいただきたい。


参加的な知識構築を考えるための資料、守山正樹
WIFY; 無くなったら困る大切なこと,もの 
1999年11月16日現在

1.一日(朝起きてから夜寝るまで)の生活を思い浮かべたとき 

2.あなたの生活している地域、職場などを思い浮かべたとき

3.我が国、さらに広くアジア、さらに全世界まで思い浮かべたとき

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