d 発育研究

1996年12月19日木曜日

子供の発育と環境とを“出来るだけありのままに”,知る方法とは何か?

時系列データの解析に伴うパラダイムと分析方法の検討


守山正樹(長崎大学医学部衛生学教室)


1. はじめに


この研究班では共通の方法論として時系列解析が使われている。研究の目的を「発育の季節変動」とするなら、時系列解析は原時系列データから季節成分を抽出してくれる便利な方法である。方法論の難しいことはその道の専門家に任せて、発育の研究者はそれを大いに利用すればいいのかもしれない。しかし時系列解析の発育への適用は、欧米の研究者が確立してくれた研究の道筋ではなく、東郷正美先生が開始した発育の長期頻回測定という研究の方向の中で新たに見いだされたものである。そして時系列解析の本質は、単なる季節変動の分離にあるのではなく、発育現象の根幹である発育のトレンドの捉え方にある。他の多くの科学的な理論がそうであるように、時系列解析の手法もそこから得られる結果も、誤謬の無い完全無欠なものではあり得ず、発育現象の本質に更に迫るために不断の努力が必要とされよう。おそらくそのことは東郷先生が最もよくご存じで、片側でタナーを中心とする発育学の主流が持つ研究の偏りに鋭い批判を加えながら、同時に月毎の計測を絶やさず、トレンドの解釈から方法論の改良に至るまで、新たな挑戦を続けておられる。このような東郷先生の研究上の重荷を幾分かでも共に担い、時系列データの解析に関して充分な討論を継続するのは、東郷先生に続くわが国の発育研究者の義務だと思われる。著者は自分自身で最後に月毎の計測を行ったのが既に10年以上前であり、それ以後は研究の方向性を変えて発育研究から遠ざかってしまった。時系列解析についても最新の文献をフォローしているわけではない。しかし最初に時系列解析に出会ったときの新鮮な気持ちは今も大切にしている。ここでは未熟さと不勉強を省みず、発育時系列データの意味とその解析について考えてみたい。

2.自分が月毎に発育を計測した経験から


「動いちゃダメだよ。23.8、いや23.6か、よし22.6、では次!」。これは著者が10年以上前に児童の身体計測を行っていた当時の状況のひとこまである。著者は1983年9月から85年3月までの1年7カ月という短い期間であるが、長崎市内のY小学校で2クラスの学童約70名(3年生と5年生から各1クラス)を対象に、7項目の身体計測(身長、体重、胸囲、座高、皮脂厚2部位、上腕周径)と握力計測を月毎に行った。計測の度毎に上述のようなことを口に出して言っていたわけではないが、身体計測も見方によってはささやかな人と人との触れあいの機会である。この期間に著者は児童1人当たり133回(7項目×19回)の触れあいを持ったことになる。この時の経験をもとに身体計測の意味から考察を始める。

月毎の計測を開始した理由は、その3年前(1980年)に東郷正美先生から戴いた手紙による。手紙を戴いた当時、著者はテキサス大学の大学院に在籍していたが、その手紙の中で東郷先生は「思春期が単一の発育スパートではなく小さなスパートの繰り返しから構成されている」という仮説を述べておられた。「年1回ではなく頻回に発育を計測することで、初めて発育のありのままが見えてくる」という指摘には目をさまされた思いがした。

1983年9月の初回計測(0カ月目)は順調に終了した。この様子なら計測時間の確保さえ順調に行けば、計測を継続するのはそれ程大変なことではないように思える。1カ月目、2カ月目と月毎の計測が重なり出すと、しかし、計測の意味について少しずつ新たな問いかけが生まれてくる。特に気になるのは得られる計測値の多さだ。7項目の身体部位は必要最小限のつもりで選択したが、それでも-回の計測毎に70名分490個、2カ月目で1470個の数値が得られる。担任の先生からは「いい結果が出ていますか?」という質問が来る。70人を性別、学年別の4集団として扱い、計測値別に各時点における横断的な統計量(平均値、標準偏差値など)を求めれば、比較的簡単に一応の「結果」が得られる。しかし、自分はこのような単純な情報が得たくて計測を始めたのではない。3回計測したくらいで、何かを語ろうとしたら、とても計測が持たない。そこで「せめてもう少しこのまま計測を続けさせて下さい」と先生に話して、計測を続ける。

5カ月目、6カ月目と測定を継続して翌1984年3月になった。学年の切れ目になるので、「何か分かったことを簡単に報告して欲しい」と先生に言われる。各計測項目につき個人別に7個の計測値を方眼紙に打点し、点を直線でつないでグラフを作る。それを机の上に10枚、20枚と並べ、見渡して考え続けてみるが、共通点のようなものはなかなか見いだせない。2カ月目には-人当たり3個しか打点できなかったのであるから、7個の点は格段の情報量のはずであるが、個人の発育に関連しては、まだ何か物が言える段階ではない、と感じられる。そこで「個人における“ありのまま”の発育」は棚上げにして、性・学年別の4集団につき、月別の計測値の平均値を求めてグラフを描く。

「この半年間は、身長・体重・胸囲・座高のいずれの値についても、小3では男子の方が女子に比較して高値をとるが、小5では逆に女子の方が男子に比較して高値をとる」などという結果がでてくる。さらに各計測値の月別の増加量を集団として求めると、例えば体重の場合は「12月から2月にかけての性・学年別の増加量平均値はゼロに近いのに、その前後の時期の増加量平均値は0.4kgかそれ以上」といった結果が得られる。「一人一人の発育を丁寧に見切れていないのに、このような集団レベルの値を出して物を言ってもあまり意味がないのではないか?」などと思いながらも、他にどうしたらいいかが分からず、集団としての平均的な発育の推移を述べるだけで、半年目の報告を終えた。

さて、4年生と6年生にそれぞれ進級した子供たちは幸いクラス替えがなかったため、4月以降も計測を続ける。4月には6年生になったばかりのクラスの女子2人が初経を迎え、この集団が思春期に入りつつあることを実感する。計測値が更に増えるにつれて、責任も重くなっていると感じられる。5,6,7,8月と計測を続け、9月に入るころには「もう何かはっきりしたことが分かったでしょう。報告してもらえますか?」という先生の声に、再度結果をまとめなくては、と思い始める。計測を一年以上続けて来ると、性・学年別の集団としては、季節毎の発育に関連して、何かを語ることができる。例えば「体重の増加量平均値はいずれの群でも11月に最高値に達した」、「上腕皮脂厚の増加量平均値はいずれの群でも5月に最高値に達した」、「上腕周径の増加量平均値は4月にはいずれの群でもゼロか負の値になった」などの結果が得られた。しかし、集団の平均値からはある程度明確な傾向が見えるように思われても、個人に戻って個別のグラフを打点してみると、一人一人について明確な傾向を見いだすのは依然として容易ではない。発育がまったくスムーズに進行しているか、と問われれば、月毎に上がり下がりがある場合もある、と言えるが、では個人の発育増加線が波動しているか、と言われるとはっきりしない。「長期に渡って観察して、初めて発育の流れがはっきりと見えてくる。-年程度の計測では大したことが言えないのではないか」との指摘に立ち返ると、「ともかく黙々と、せめてあと2年は月毎の計測を続けよう」と思う。その一方、「この子の今月の△□値は先月よりも高い、○△の値は先月よりも低い」といった月毎の実態も、長期の傾向とは異なった意味で、それなりの重要性を持っているかもしれない、と考える。またそうであってくれれば、計測毎に担任の先生が聞いてくる「今日の計測からは何が分かったのですか?」という質問に何とか答えられる。そこで計測が2年目に入ったところで、個人別に計測値が直前数カ月の増加傾向を大きく外れて増加・減少した場合には、それを表示できるように個人別のカードを作成してみた。しかし、この子のこの値は急に「上がった/下がった」をただ情報として表示しても、その現象を説明できるとは限らない。むしろ、何もないことの方が多い。もし身長、体重のような基本的な計測値が急に上下して、そこに何かあるなら、その何かの方が問題で、それは考えて行くと、その子の健康管理の問題に行き着く。健康管理はとても大切なことではあるが、自分が身体計測を継続しているのは「ありのままの発育に触れて、そこから発育の実態に即した発育の様相を見極める」ためであることからすると、健康管理を全面に出すのは気が引けた。また月毎の健康管理が大切であるなら、わざわざ特定の計測者が精度管理の下に月毎の身体計測をしなくてもいいような気がする。ベテランの養護教諭が月毎に全児童の顔をみて、やさしく「今体の具合はどう?何か困ったことはない?」と聞いてあげる方が余程気が利いている、とも考えられる。結局、発育の研究者としての自分がしていることは、要するに児童の一人一人との触れあいは最小にして、「ただ黙々と身体を計測する」ことなのだろうか、と悩んだ。

それでも1984年11月の学校での報告会は乗り切り、85年3月まで月毎の計測を継続した。月毎の身体計測の目標を、月毎の健康管理に置くなら、身体計測以前に、子供たち個々人の健康への問題意識と真筆な問いかけが必要だが、当時、著者自身にはそうした問題意識は希薄だった。さりとて、身体計測の目標を「ありのままの発育像」に置こうとしても、既に行った計測は-人当たりまだ19回に過ぎない。時系列解析に持ち込むためには、これまで以上の期間、更に計測を継続しなければならない。計測に関わる時間はたかだか数十分だけだから、1ヶ月にそれだけの時間をさいて黙々とデータをため続ければよい、とも考えたが、このような研究者本位の考えで調査を続行できる状況ではなかった。計測対象が物言わぬ存在であればそれも可能だったかもしれないが、相手は思春期に近づきつつある70名の小学生である。たった1年間の間に、集団で行う計測への態度も変化してくる。計測の都度、担任の先生方にも計測の意義を具体的に説明できなければ、こちらの立場はない。さらに、既に終了した19回の計測における計測値の変動を詳細に分析した結果、例えば皮脂厚の計測値が84年の12月から85年の1月にかけて、全ての対象者で僅かづつ低下しており、その原因が84年の12月に行った皮脂厚計の微調整である可能性が出てきた。同一の測定者が同一の測定器で計測を続けたとしても、このような予想外の誤差が入る可能性も無視できない。ランダムな誤差なら時系列解析の操作で消すことが可能だとしても、月毎の頻回測定に伴う系統的な誤差があるとすれば、それをどのように精度管理していったらいいのだろうか?

自分で直接に計測をせず、他の人に計測をお願いしていたなら、もう少し余裕をもって事態を捉えられたかもしれない。発育の研究者としては、根気が足りなかったのかもしれない。ともかく、さまざまな疑問に充分に答えを出せないまま、6年生の卒業を契機に著者の月毎頻回計測は終わった。


3.発育研究におけるパラダイム;特に発育トレンドの捉え方と関連して


パラダイムという考え方についてはクーンの詳細な考察がある(クーンpp。12-25)。簡単に言えば「特定領域の科学の仕事をしている人々が、その仕事に関連して同様の規則、同様の基準を共有している場合」に、その人々はパラダイムを共有している、と表現される。別な言い方をすれば、パラダイムとは広く人々に受け入れられている業績で、一定の期間、科学者に、自然に対する問い方と答え方の手本を与えるもの、となる。“発育を大所高所から数理モデルで記述する(統計的パターン化型)”という発育学の主流のパラダイムに対し、“発育を頻回計測によって丁寧に観察しそこから発育の意味を考える(ありのまま観察型)”という東郷先生の新たな発想が、一つのパラダイム転換であることは間違いないと著者は考えている。このことを見極めるために、以下では東郷先生に先行して発育の月毎測定を行った松林の仕事に触れながら、東郷先生におけるパラダイム転換を考察する。またそれと比較の意味で、現在でも発育研究の主流であり続けているタナーのパラダイムについても触れる。以下では頁数の関係もあって、松林、タナー、東郷先生のいずれの場合についても個人的な業績しか取り上げないが、それぞれが提起した発育研究の方向性と、それを受け入れて研究を進めている人々への影響からして、それぞれの研究の影響範囲をパラダイムと呼んで差し支えないと考える。


3.1.松林のパラダイム、“ありのまま観察型”の原型

松林は初経発来に関する松林説の創始者として有名な発育学者であるが、その基礎になったのが独自の発想による月毎の縦断的発育計測であることは、それ程知られていないように思われる。著者はまだ大学院学生の時に、竹本泰一郎先生(現在、長崎大学教授)から松林の存在を教えて戴いた。以下に引用するのは、松林が民族衛生の第2巻に発表した86頁に渡る長文の論文の方法の部分である(松林1932、p4)。

「著者は、大正12年4月から、昭和5年3月にいたる満7ケ年間に、広島市高等女学校在校生全部に実施した、身体測定数値を以って、統計的研究を行い、初経が身体発育に如何なる影響を及ぼすかを観察した。大正9年同校校医に就任以来、一般に行われつつあるが如き年1回の身体検査が、学校衛生上極めて意義少なきを遺憾とし、これに対し何らかの改善を加えんと努力した。その結果、毎月2回の体重測定と、一回の身長測定を行い、これを各人一枚づつのグラフに記入して、一見その増減を明らかならしめ、生徒の健康状態を知る資料の一部とした。即ちこれを以て年3回の身体検査の参考に供し、また学校看護婦、並びに受持教師は、体重減少者、又は体重増加の遅々たる生徒を発見するときは随時、身体検査を受けしめる様注意を輿える事とした。而して診察の結果は、個人的衛生の指導により、発病の予防につとめ、また疾病の治療にも適当なる指針を興えて、相当の効果を挙げ来ったものと信ずる」

これを読むと、まず計測に際しての松林の基本的な姿勢は「ありのまま観察型」であることが分かるが、それは発育研究の為の「ありのまま観察」ではなく、健康管理のためであることが明言されている。更にその管理の対象が、おそらくは栄養障害や結核などの感染症であり、その為に「体重増加不良者・体重減少者」を発見することが主たる目的であると考えられる。では松林はこのような健康管理を目的とした発育頻回測定から、発育自体に関しては、まずどのような見解を得たのだろうか?

「斯くして得られたる一枚づつのグラフを通覧する時、少なからず奇異なる現象を発見した。即ち同一年齢の健康者でありながら、4年間の発育状態に甚だしき差異を認める例が相当多数に存在する事で、例えば、身長に於いて、4年間の絶対発育極大は24cmなるに、極小は僅か1cmであるが如く、又体重増加の、極大は28 kgなるに、極小は2kgを示す。即ち入学当時大の部に属していた者が、卒業の時には、中又は小の部に属する者、決して少なくない。右は、これを病的と考ふべき理由なく、当然生理的現象を解すべきであって、その成因について種々攻究したるも解決に至らず、終に数年を経過した。」(松林1932、p4)

ここで見る限り、松林は個人別の発育グラフから、発育の個人差が極めて大きいこと、それが病的なものではなく生理的な現象であること、を指摘し、その成因についての研究を進めたことが分かる。即ち「ありのまま観察型」から思春期発育に関連して、その発育の個人差を生理的な現象として説明できる仮説を追求(攻究)していった。この追求の中心になったのが、初経年齢別の集団における発育の統計的な比較であることは松林の論文本文から明らかである。そして各条件下での集団の分布と変動範囲、平均値と確率誤差の検討を経た後、松林は

「然るに、月経初潮と身体発育との関係を調査した結果、計らずも、これらの疑問(すなわち4年間の発育状態における大きな個人差)は終に氷解するを得たものと信ずる。依ってここにこれを発表して諸賢の批判を仰がんとする所以である」(松林I932、p5)

としている。「ありのまま観察型」から問題提起を得た松林は、「統計的パターン化」の戦略を採用して問題解決を行ったことが、明らかである。では松林は発育に波がある事実に関しては、どう考えていたのだろうか。少なくとも発育の季節変動に関しては、松林もその存在をはっきり認めていた。しかし、季節変動に対する松林の態度は素気ない。

「身長及び体重の発育は、季節的変化がかなり著明であるから、この影響を度外視するため、初経月を中心として、前後へ満一年毎の計測値を使用した」(松林1932、p6.)

とだけ述べて、あとは研究を季節変動を除外した時の発育の様相に、研究を集中して行った。


3.2.東郷先生における発育研究のパラダイム転換、“ありのまま観察型”の新展開

著者自身は大学院の学生時代以来、発育に関連して、東郷先生から極めて多くの影響を受けた。こちらから何かの質問をさせて戴いたときには、常に丁寧なご返事を戴いていたが、それらを再度見直してみると、東郷先生がどのようにして「発育波動」の考え方にたどりつかれたのかが、ある程度理解できる。

東郷先生はなぜ、月毎の発育計測を始められたのだろうか?東郷先生ご自身は「鹿児島大学公衆衛生学教室にいた1971年の春に、ふとしたきっかけで、わが子5人の身長と体重を毎月一回測定し始めた。深謀遠慮をめぐらしたわけでもなく、固い決意のもとに断行したわけでもなかったが、1996年の春には4分の一世紀に達する」と書かれている(東郷.1995,p13)。この中では“ふとしたきっかけ”となっているが、以前この部分について更におたずねした時、そのルーツが「自分が大学院の時に学んだ東京大学医学部公衆衛生学教室の研究の伝統の中にある」との答えが返ってきた。そこで東郷先生の恩師である勝沼先生が1966年に書かれた公衆衛生学的接近を見ると次の一節にぶつかった;

「いまある特定の個人を検査し、そのときかりに-つの測定をした場合を考えるとその場合定性的な検査ならば問題はないが、連続量としてでてくるような定量検査の場合(たとえば血糖の検査、血圧の検査など)でてきた値をなにと比べるかということか問題となる。臨床医学の目標からいえば、その人がその人の正常値とくらべなければならないことは明らかである。ところが、大方の測定論では、その人と同じような性、年齢、生活状態をもった日本人の一般の値とくらべることになっている。・・・(中略)・・この点について私どもが10年ほどつづけてきた白血球総数の正常値分布についての観察結果から若干の事実を述べてみたい。個人分布についての図22のAからLまではすべてちがった個人である。健康人について月1回午前11時に測定をし10年間つづけた結果を整理してみると各人の正常値の分布が図のようになった。・・(中略)・・このような点から考えて集団検診では集団の立場よりの評価が必要であり、個人に還元する場合には個人の立場に立って評価しなければならないという平凡な原則がでてくる。しかしこの意味における正常値の基礎資料は現在まで医学があまりもっていない。・・」(勝沼 1966、pp37-38)

日本人一般の値が確立されている場合でも、その人個人を論ずる場合にはその一般値では不十分であり“その人の正常値”を正確に知るために、例えば毎月1回の測定を10年間継続する場合が有り得ることが、この一節から読みとれる。東郷先生が月毎の計測を開始された背景には、このような“ありのまま観察型”の発想があったのではないかと考えられる。このようにして蓄積を開始した月毎の発育データに対し、東郷先生が本格的に時系列解析を適用されだしたのは1979年の後半と考えられるが、その当時、東郷先生は発育研究をどのように考えておられたのだろうか? 東郷先生は1978年から79年にかけてロンドン大学のタナーのもとに留学されるが、その当時、東郷先生が著者にくださった手紙をもとに東郷先生の考え方をみてみよう。

東郷先生の手紙1(1979年5月7日)「拝復、お便りと論文2編ありがとうございました。Prof. Tannerに会って話をしようと思っているのですが、何しろ多忙な方でまだ会えません。そのうち機会を見て、話をしておきます。…中略…Prof. Tannerは勉強家でもあり、理論家でもあり、統計にも強い方で、Longitudinalに測定をした場合、新たに測定される集団に加わる例や脱落する例、1~2回欠ける例など必ず出てくるのですが、この場合に最も有効にdataからinformationを引き出す方法としてmixed-longitudinal analysisがあり、1979年にYatesの論文が出、50年にPatterson、51年にTannerの論文で、この方法は基礎が出来上がったと思います。その後computerが使えるようになり.便利にはなりましたか、基本は変わってはいないと思います。こちらに来て、Prof. Tannerの他の側面を認識しました。この理論はそう簡単ではないのですが、これを機会に勉強しています。何べんかここの計算機で処理しました。これは発育に限ったものではなく、逆に、一般の例をProf. Tanner が発育に応用したもので、これが使えれば公衆衛生の領域だと健康診断をはじめとする多くの時系列データの解析に利用出来ると思います。…」(personal communication)

この手紙より、東郷先生が時系列データの解析に大きな関心を持ち、mixed-longitudinal analysisの利用可能性に大きな期待を持っていることがわかる。

東郷先生の手紙2(1979年11月6日)「拝啓 ごぶさた致しておりますが,もうすっかり新しい環境に慣れた頃だと思います。私は8月末に(31日)出発、9月1日、暑い盛りの日本へ帰って来ました。結局、約1年半英国に滞在した事になります。…中略…LondonではTurner's syndromeの患者の発育のfollow-upと言っても、実はProf. Tannerがすでにもっているdataの分析をしただけなのですが、sitting heightと subishial leg length (= stature - sitting height)をくらべると、正常人よりも脚が短いと言われていたのが、逆だという事が分かりました。非常に小さなfindingですが、dataを煮つめて行くprocessでTannerがどんなふうに物を考えるのか、どうやって論文を書き上げるのかが多少は分かって、これが留学での最大の収穫だったと思います。細かいところにも注意を払いながら、意外と大胆で、無茶じゃないかとさえ思える場面もありました。Roland Hauspie(Laboratory of human genetics, Free University of Brussels)が1年Tannerの所に、私とほぼ同時期に来ていて、彼が作ったmixed longitudinal analysisのprogrammeを使って、dataを処理してました。…(中略)…私自身の興味は発育にみられる季節変動を定量的に把握し、次に環境のどの部分の季節変動と一致するのか、又はどれだけの位相のずれがあるのかを手がかりにして、発育と環境の関係を追求してみたいと思っています。まだpaperになっていませんが.成人(大学生)では体重とか、体内K量とか諸々の項目で季節変動を証明する事ができましたので、次には小児のlongitudinal dataから、季節変動成分を分離すべく準備を進めています。…(後略)。」(personal communication)

この二番目の手紙によれば、東郷先生が発育の季節変動に関心を持ち、小児の縦断的な身体計測値に対して、季節変動を分離する仕事を始めていることが明らかである。そして、この手紙の次に著者にくださった手紙(1980年12月24日づけ)の中で、東郷先生は発育波動説を述べられた。著者はこの重要な手紙を紛失してしまっているので原文からの引用はできないが、そこで先生は“思春期が単一の発育スパートではなく小さなスパートの繰り返しから構成されている”という仮説をわかりやすく述べ、また今後必要な研究の方向として“内分泌の測定”と“より多くの個体の長期計測による繰り返しスパート説の裏付け”の二つを強調された。

3.3.タナーのパラダイム、発育研究主流としての“統計的パターン化型”

ではTannerは発育をどのようにみているだろうか? Tannerは発育研究の大御所と言われるだけあって、発育に関連して極めて多くの研究者に影響を与えている。Tannerの75歳の誕生日を記念して出版されたEssays on Auxology(1995)には20ヵ国49名の研究者が執筆し、Tanner自身の著作リストには278編の文献が挙げられている。このTannerの発育に対する考え方を通覧するのは容易なことではないが、Tannerの初期の代表的な著作であるGrowth at Adolescence(第二版、1962年)を見ると、その最初の頁でTannerは思春期のスパートを次のように要約して述べている。

「lt shows dearly that in general the velocity of growth decreases from birth (and actually from the fourth month of foetal life) onwards、 but that this decrease is interrupted certainly once、 and perhaps twice‥…(中略)‥… The adolescent spurt is a constant phenomenon and occurs in all children, though it varies in intensity and duration from one child to another. (p1)」

このことより、タナーが思春期のスパートを極めて明確で、定型的な出来事として捉えていることが分かる。既に述べたごとく松林は、研究を“ありのまま観察型”の視点からスタートさせ、その後“統計的パターン化型”の論を展開していたが、思春期の発育研究の集大成を目指したタナーの上述の著作では、最初から“統計的パターン化型”の方向が明らかである。

一方、季節変動に関しては、Tannerはどのように考えていたのだろうか。Growth at Adolescenceの中では、季節は遺伝的背景、栄養、疾病、運動、社会経済階層、などと共に、「発育速度と思春期到達時の年齢に影響を与える要因群」の一つと位置づけられており、以下のように述べられている。

(p110)There is a we11-marked seasonal effect on velocity of growth visible in most human growth data. Growth in height is on average fastest in spring and growth in weight fastest in autumn. This is true at all ages,including adolescence.

これらを見る限り、Tannerは円滑で規則的な発育を発育現象の根幹と見ており、それに対して季節はその根幹を修飾する-要因と位置づけられている、ことが明らかである。このような位置づけは、季節変動を明らかに認めながらも、それを除外して発育の根幹を考えようとした松林の立場とも似ている。


4.新“ありのまま観察型”のパラダイムを支える時系列解析の検証


これまで見てきた通り、松林の場合も東郷先生の場合も月毎の計測を支えたのは、まず発育を“ありのままに”見たいとする発想であった。しかしこの“ありのまま”とは、どういうことなのであろうか? 最初に観測される発育現象を、そのありのままの形でまず受け入れ、そこから何らかのデータの加工を積み重ねて、発育の規則性と多様性を考えてゆく、という研究の姿勢は、大多数の発育の研究者が受け入れている研究の道筋ではないかと思われる。ただこのデータ加工の段階で、発育をパターン化して捉える方向へ一足飛びにいってしまうのか、それとも“ありのまま”にこだわり続けるかで、研究の結果は大きく異なってくる。

発育をすぐにパターンにあてはめるか、どうか、の方向性を決定づけるのは、これまでも繰り返し触れてきた“測定間隔”と原データの加工に際して“数値処理の道具”として何をつかうか、の2点であろう。例えば思春期における計測点が3、とか5,或いは7個くらいしかない場合、この点で代表される発育の傾向線を浮かび上がらせよう考えるなら、もっとも単純なのはフリーハンドで描くことであろう。フリーハンドよりは綺麗に描けると、雲形定規のセットを取り出す人もいるかもしれない。別な人はいっそのこと、何らかの数式を当てはめて、発育曲線を描くかもしれない。雲形定規のカーブ自体が何らかの数式で現される曲線を模して加工されていることを考えれば、この間の発想に飛躍はない。このように数式で発育が現されれば、それは発育のモデルになる。このようにして“統計的パターン化型”への道筋が開かれる。

一方、今度は思春期における測定点が20、30、40個と頻回にある場合を考えてみよう。このように点がたくさんあると、発育傾向の細部が見え始め、細かい変動が気になり始める。この場合も、幾つかの点をひとまとめに要約してしまい、そこにザッと数式を当てはめることは可能である。しかし細かい測定間隔で事象を計るということは、そのような細かい変動をみようとしたわけであるから、そうして観察された細かい変動を無視して数式を当てはめることには、ためらいが生じる。では細かい折れ線グラフでも描けばいいか、というと、そのままの折れ線グラフを書いたのでは、観測で得られた混沌とした状況をそのまま再現しただけで研究が進まない。

そこで時系列解析が登場することになる。時系列解析、特に東郷先生が発育波動説を提唱される際に根拠としたのが、アメリカの統計局で開発されたセンサス11法であった。センサス11は原時系列を傾向循環成分(トレンドと略す)、周期的・季節的な変動成分(季節成分と略す)、不規則成分の三者に分解するための計算プログラムである。このセンサス11が東郷先生におけるパラダイム転換を支えて来たのであるから、この方法の意味を見極めることは極めて重要なことである。

センサス11の結果の解釈において、季節成分とトレンドとをどのように捉えるのかが重要なポイントとなる。時系列解析を行う目的が季節変動の分析にあるのなら、センサス11は個人の季節変動をはっきりした形で示してくれる便利な道具と言える。しかし、時系列解析を採用した第一の目的が季節変動の研究ではなく、発育のありのままの傾向線の研究であるならば、結果の解釈には様々な注意が必要である。最大の疑問はセンサス11で得られたトレンドを、ありのままの発育の傾向線と見なしていいか、ということである。ありのままの発育を見ると言いながら、センサス11に計算をまかせ、その結果として出力されたトレンドを見ているのであれば、このトレンドをありのままの発育と見なしていいかについて議論が必要である。“統計的パターン化型”の研究の場合のように発育の研究者が自分の好む数理モデルを直接に当てはめているわけではないが、センサス11を使う中で、それとは意識せずに、このセンサス11の計算過程に内在する前提や仮定(これもモデルの一種であろう)に依存してしまう可能性は大いにある。その中でもセンサス11も含む多くの時系列解析法の基本原理となっている移動平均法については、詳しい吟味が必要であろう。

原時系列における個々の値は互いに独立した計測値と考えられるが、その独立な値の集まりが時間軸に対して示す分布から経時的な特定の傾向を読み取ろうとするとき、隣りあう測定値の平均値をとることは一見ごく自然な行為のように考えられる。これを隣り合う2点間で行うだけでなく、隣り合う3点、5点、7点と平均値計算の範囲を拡大していくと、それに応じて原時系列に見られる最初のギザギザした傾向線はならされ、滑らかになっていく。センサス11ではこのn項移動平均値を計算する際の点の数(n)を通常13(点と点の期間としては12)に設定して計算がなされる(SAS Institute、p62)が、13の代わりに9或いは23を選ぶことも可能である。

ではこのn項移動平均法とはどのような特徴を持った計算方法で、例えばnの選び方は結果にどのような影響を及ぼすのだろうか? 移動平均を計算する際の点の数を幾つに選ぶかによって、得られるトレンドの様相はかなり異なり、Kendallが示している例によれば、トレンド上に小さなピークが幾つか現れる場合もあれば、そのピークが見えなくなってしまう場合もある(Kendall、pp.53-54)。このことよりすれば、特定の設定の移動平均から得られるトレンドは決して一義的なものではなく、その設定に際しての研究者の主観に依存してしまう。この様な移動平均値に内在する問題点の源として、当初は独立と考えられた原計測値が、原計測値の平均値をとってゆくことでその独立性が失われ、互いに関連を持ったものに置き換えられてしまう事実が指摘される(Kendall, p39)。このような当初はなかった関連性が生じる結果、トレンド上に一見明らかな波動が人工的に生まれてしまう場合もある(Kendall, p41)。この様な状況からKendallは移動平均法について以下のように結論している;

 「The upshot is that any moving average is likely to distort the cyclical, short-term and random effects in a series. There seems to be no escape from this situation, at least so far as trend-elimination by moving averages is concerned.」(Kendall, 1976、p.44)

Kendallが指摘しているようなn項移動平均法の欠点は、nの設定の仕方などによって補正が可能である。著者はセンサス11の計算過程の全てを理解している訳では無いが、センサス11では当然、何らかの補正が行われていると考えられる。しかし、n項移動平均というセンサス11の基本原理に様々な限界がある以上、センサス11も決してデータをありのままに見る完壁な方法とは言いきれない。表向きは統計的パターン化のような数理モデルを半ば強引に当てはめるのではなく、ありのままの現象を見ようとはしている訳だが、その際に移動平均法という一種のフィルターをかけて物を見るため、フィルターの特性によって、小さなピークが見えたり、見えなかったり、といった事態も起こりうる。センサス11の計算過程をブラックボックスとして研究を進めてしまうと、それとは気づかずに“ありのままの発育”とは異なったものを“ありのまま”としてしまうことも有り得る。

このようなセンサス11の特徴を考えると、得られたトレンドを図にしたところでデータ処理を終えてしまうのでは分析とは言えない。少なくとも、再度、原時系列に戻って、そのトレンドを原時系列の根底にある情報としてよいか、に関して充分な考察を行うことが必要である。測定点の数が多すぎて、いちいちそのようなチェックをすることが困難であるなら、頻回測定と時系列解析の意義そのものが疑われてしまう。「統計的パターン化型」の場合は、数理モデルの選択などに強引な点があるにしても、そのモデルのあてはめの適切さは、最終的には常に原データに照らした場合の残差という形で確認され、残差が大きすぎればモデル自体が棄却される。このような判断をセンサス11で得られたトレンドに関して行うにはどうしたらいいのか、今後の検討がさらに必要であろう。


5.より多くの事例とより多くの時系列解析適用を目指して


さてセンサス11が決して万能ではないことは前項で述べた。しかし時系列解析が、発育の傾向を眺める上で依然として有力な方法であることは間違いない。またセンサス11を利用した発育研究が、東郷先生以後の研究者に引き継がれつつあるが、センサス11の解析力についての疑念はまだ指摘されていない。いづれにしても可更に多くの追試を行うことで発育波動説を確認し、研究を発展させる必要があることはいうまでもない。そこで以下では、松林のデータにセンサス11を適用し、トレンドと季節成分を観察した。

松林の論文の末尾(pp.71~88)には18名の対象者について、4年間に渡る月毎の身長と体重の計測値がグラフとして示されている。これらの図を拡大コピーした上でグラフ上の点からその座標を読み取り、それを原時系列として時系列解析を行った。

図1と図2に示したのは身長増加速度のトレンドである。図中の事例番号には、その事例が掲載されていた文献中の頁番号を当てた。各図における事例の配列は、4年間の観察期間と初経年齢との関連で、相対的に初経が早く初来したものほど上に来るようにした。図の横軸は初経(M)からの経過年数(M-1、M、M+1、M+2、M+3)である。図1の9例は、初経が観察期間の前半かそれよりも以前に生じているため、思春期のピークの観察には適切でない。これに対し、図2の9例は、初経が観察期間の後半以後に起きているため、少なくとも初経前2年間のトレンドを観察できる。これによると初経前に増加速度のピークが三つ以上明らかに認められるのは事例73のみである。事例83、85、74には二つのピークが認められる。事例84、82、86、88、87ではピークは1つか、或いははっきりしない。これらのことよりすれば、松林のデータに関しては、発育が明らかに波動しているとは言いがたい。この同じデータを著者以外の人が観察して、小さな変動もすべてピークと見なすのであれば、著者と異なった結論を出す場合もありえよう。しかしこの程度の結果から何かを言おうとすれば、それは主観の領域に入ってしまう。

結局、この図から何を考えたらいいのだろうか? 小さなピークらしいものが、移動平均によって生み出された自己回帰過程に起因する人工的な変動ではなく、ここに見えるものこそが発育のありのままである、と主張することは可能である。仮説なしに、これらの図に描かれたありのままを眺めるということは、発育研究のスタートラインに戻ったということになる。原時系列が雑音や誤差に埋もれた発育の“ありのまま”を示し、時系列解析の結果得られたトレンドがより純粋な発育の“ありのまま”であると主張するのなら、結局発育とは何だ、という問いかけは振り出しに戻ることになる。小さなピークは波動であると仮説を立てるのであれば、ここからさらにどのように仮説を証明するか、に関して追求を始めなければならない。


6.パラダイム間の相互作用


研究をしていてデータがどんどんたまる一方で、その意味を充分に把握できていないと不安になるのは誰にも経験のあることだと思う。著者自身もかって行った月毎の発育計測の中でこの気持ちを味わった。このようなとき、必要最小限のデータを得たら、そこから明確な仮説を設定し、何らかの統計的な解析によって個人にも集団にも通用するような結果を得る方向へ向かいたい、と考えるのは分かりやすい-つの方向性である(統計的パターン化型)。しかし、この統計的パターン化型だけに、はまって研究を続けていると発想に独創性が乏しくなり、発育のありのままが見えなくなってしまう。

この“ありのまま観察型”の姿勢を維持する中で出てきた新たな発育研究の流れが、時系列解析の適用であり、発育波動説であると考えられる。しかしすでに見てきたごとく、東郷先生が切り開いた新たな研究のパラダイムは“時系列解析で季節変動を除いたとき、そこに表れてくる発育の不規則な波動”の存在を指摘した段階で、留まっている。その不規則な波動が、周期的ではないけれどもやはり環境に起因する波動なのか、もっと内在的なものなのかは、まったく解明されていない。この解明は今後の東郷先生に続く日本の発育学者に科せられた一つの命題だと考えられる。このように著者が考えていたのは数年前の事であった。しかしその後のタナーと東郷先生の研究の歩みをみていると、この数年間の間に二人の論調が変わってきていることに気づかされる。


6.1.タナーの論調の変化

タナーの考え方については、既に初期の著作であるGrowth at Adolescenceを引用したが、その後に出たFoetus into Man(初版、1978年)を見てみよう。この本の第一章冒頭において、タナーはGrowth a tAdolescenceの場合と同様に、まずDe Montbeillard’s Sonの発育曲線を図示した後、身体発育を次のように概説している;

(p.7ー8) Growth is in general a very regular process. Contrary to opinions still sometimes met, growth in height does not proceed by stops and starts, nor does growth in upward dimensions alternate with growth in transverse or, more ominously, anteroposterior ones. The more carefully the measurements are taken,with precautions,for example, to minimize the decrease in height that occurs during the day for postural reasons, the more regular does the succession of points in the graph become.」

ここの記述においては、身長の発育がギクシャクと進行するものではなく、円滑に規則的に進行することが強調されている。著者はこれまで以上の記述をもとにタナーを捉えていたが、この同じ本の第二版によればタナーは発育進行の円滑さに関して、かなり考えを変えていることが分かる。以下には滋賀大学の林正先生の翻訳を示す;

    「一般に、発育は非常に規則的な経過をたどる。より注意深い測定で、例えば日常生活の立位による身長の減少を最小にするように注意するとグラフ上の点の連続はより規則的になる。…(中略)…これは一般的に正しいことであるが、子供によっては規則的な季節変動があり、測定植が6カ月ごとに数学的曲線の周辺に周期性を持って位置する。しかし、1カ月前後の短期間でも速度の変動がある。これらの短期間の波動は身長においては、容易にピックアップされない。しかし、かなり正確な装置であるI.M.Valkの膝高計(knemometer)を使ってみると、膝から踵の下腿長の測定植で変動をみることができる。短期間で発育は止まる。或いは減少すら起こるようである。最近それらを徹底的に研究したMichael Hermanussen博士によりミニスパートと呼ばれ、多少の病気か単なる不快をも反映する。…」(タナーI994. pp.1-3)

この記述の中で、タナーは身長発育速度に関連し、波動、ミニスパート、短期間の速度の変動、などの言葉を使用している。これで見る限り、タナーは発育を非常に規則的な経過としてまず位置づけた上で、実際の発育はその規則的な経過に季節変動や短期間の波動が上乗せされたもの、と主張している。この記述よりすれば、実質的に発育が波動する事を認めていると考えられる。


6.2.東郷先生のその後の展開

一方、東郷先生は最近、時系列解析に際してセンサス11ではなく、発育の自己回帰過程を考慮できる別の時系列解析方法(統計数理研究所の北川教授が作成したデコンプ)を使用し始めたと述べておられる(東郷1994、pp2-3.)。この新たな時系列解析と従来の方法との相違点を北川教授は以下のように総括している。

「 A typical application of this non-Gaussian modeling(デコンプのこと?)is the smoothing of a time series that has mean value function with both abrupt and gradual changes. Simple Gaussian state-space modeling (センサス11など旧来の方法のこと?)is not adequate for this situation. Here the model with small system noise variance cannot detect jump, whereas the one with large system noise variance yields unfavorable wiggle. To work out this problem within the ordinary linear Gaussian model framework、 sophisticated treatment of outlikers is required. But by the use of an appropriate non-Gaussian model for system noise,it is possible to reproduce both abrupt and gradual change of the mean without any special treatment.」

このデコンプでは原時系列がトレンド成分、自己回帰成分、季節変動成分、曜日効果項、観測雑音項の5つに分解される。センサス11と大きく異なる点は自己回帰成分が独立して分離される事である。このデコンプを用いた身体計測値の時系列解析では、トレンドに波動がみられない。要するにセンサス11でトレンドの波動を形成していた部分が、デコンプでは自己回帰成分とされてしまうらしい。ではこの自己回帰成分とは何なのだろうか?“自己回帰”は統計的な言葉である。統計学者が自己の理論を語るのなら、それで良いのだが、発育研究の立場から言えば、この自己回帰という統計的な言葉は、発育の言葉で語り直さなければならない。この点に関しても今後の検討が必要とされている。

さて、このデコンプによって得られた発育のトレンドは、センサス11で得られたトレンドよりも、より“ありのままの発育”に近いのだろうか?それとも“ありのままの発育”は二つの時系列解析法による結果の中間にあるのだろうか?或いは、今後更に新たな発想による時系列解析プログラムが提案されれば、そこからまた別の時系列構造が発育現象の中から浮かび上がるのだろうか? もし発育のトレンド自体には波動がないとするならば、現在のタナーの主張との差はあまりないことになろう。いずれにしても、現在の時系列解析法は、まだ新“ありのまま観察型”の研究パラダイムを支える程の成熟した統計の手法には至っていないように思われる。発育の研究者の側から、時系列理論を研究している統計学者の方に、実際的な問題提起を継続する事により、新たなパラダイムを担えるより確実な方法が得られるのであろう。


7.パラダイム転換はまだ終わっていない;袋小路か、それとも更なる発展か


発育研究の主流である「統計的パターン化型」のパラダイムからすでに数え切れない程の研究成果が得られ、それが現実に受け入れられ、利用されていることは周知の事実である。しかしこのことは、主流のパラダイムをすべて無批判に受け入れるということではない。常に原点に戻って「発育現象の本質がそのパターン化で捉えられたのか?」を問い続ける必要があろう。この点に関して、東郷先生が行ってきた新パラダイムの提案は、計り知れない価値を持っている。

では今後の発育研究はどのような方向を目指すべきなのだろうか? 松林が先駆け、東郷先生が具体化した発育研究のパラダイム転換を正当に位置づけ、そこから学び続けることが、すぐに必要な作業であると、著者は考えている。しかし著者自身が十年前に挫折してしまったように、“ありのまま観察型”のパラダイムを追求することは、それ程容易なことではない。“ありのまま観察型”の最大の問題点は、発育研究において計測という行為があまりにも重すぎるものになってしまうことにある。これは発育学に限ったことではなく、人と人との関連の中でデータを得ようとする全ての科学に共通なことであるが、対象者と調査者の関連は無視できない問題である。例えば文化人類学などの分野では、調査が長期に渡る場合、対象者が調査者を意識しすぎないように、調査者の存在感を希薄にするような戦略が採られる、と聞いたことがある。まったく対象者に気づかれずに、観察者が対象者の身体を正確に計測できる技術が近い将来に開発されれば別であるが、そうでない限り、身体計測に於いて調査者がその存在を隠すのは困難である。単に対象者にインタビューするなどの方法と違って、身体計測の場合はキヤリパーを皮膚にあてたりする度に、調査者は対象者の体に直接に触れることになる。半年、或いは一年に-回であれば、何も気にする程のことはない出来事であろうが、これが月毎、或いはそれ以下に測定間隔を設定した場合には、影響は無視できない。このような計測の状況は、当然のことながら、対象者と調査者との人間的な関係によっても影響を受けよう。対象者と調査者との関係が良好であり、身体計測が対象者にとっても興味深く楽しい出来事であれば、少なくともその頻回計測の継続性については希望が持てる。一方、対象者と調査者との関係が必ずしも円滑でない場合には、頻回計測の継続性に不安が生じる。更にいずれの場合も、計測行為が発育に影響を与える可能性は存在する。

近年わが国において、一年に-回だけの身体計測に関しても、特に座高と胸囲に関して、その計測の意義が疑われ、計測値から除外する方向で考慮がなされたことは記憶に新しい。これまであまり物を言わない存在と考えられてきた対象者(被計測者)のことを十分に考慮しないと、計測自体が行い難い状況が生まれてきている。研究者、調査者を中心に研究を据えている限りは、“ありのままの観察”という目標には到達が困難だとも言える。“ありのままの観察”という研究的観察・データ処理に関連したパラダイムに加えて、現場における計測の意味や対象者と調査者の関連などを包含する新たなパラダイムを作る時期が来ているのかもしれない。

文献


勝沼春雄 1966 公衆衛生学的接近、南江堂、東京都文京区、pp.37-38.
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タナー,J.M.1994 第一章、発育曲線、成長のしくみをとく(Foetus into Man, second edition 1989 ;タナー著、林監訳)、東山書房、京都。
東郷正美 1994 時系列解析プログラム“DECOMP”を用いた発育研究、教育と健康の相互作用についての研究(平成5年度科学研究費補助金研究成果報告書)、東郷編、東京大学教育学部。
東郷正美 1995 発育から健康へ、東郷正美教授御退官記念事業実行委員会
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